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室町時代とは?(2) [歴史]

従来の歴史観では、室町時代は、様々な権力争い・圧政による暗黒時代という風に印象付けられ
てきたが、様々な史的資料が明らかになって、従来の歴史観が間違っていたという説もある。
現代という時代も、「現代は最悪の時代」と、声高に叫ぶ政治家や一般人も多いのだから、
日本人にとって、暗黒の時代でない時代など無いのかも知れない?

まあ冗談はさておいて、昔は、関が儲けられていて、通行税がかかるから、通商が活発でなく、
庶民は苦労を強いられた、と良く聴かされた。先日も神戸散歩で兵庫津に行って、海にも関所が
あり、入出港船に、関税がかかって、大変だったという話を聴かされたばかりだった。
所が、室町時代の歴史書(集英社版:日本の歴史<9> 「日本国王と土民」著者・今谷明 )を
紐解くと、当時の暗黒面と共に、明るい素晴らしい側面をも物語っていた。
ここでは私が所有している「神戸市立博物館・常設展示あんない」という冊子から、室町時代の
一面を振り返ってみたい。

1)兵庫の港と瀬戸内海の流通
 15世紀前半、兵庫の港は遣明船の発着地となり、室町幕府により修築され最盛期を迎えた。
「兵庫北関入船納帳」という古文書によると、文安2年(1445)に通関した船は約二千隻。
当時と同時代の外国の記録は余り残っていないようだが、前述の歴史書によると、ハンザ同盟で
繁栄を誇ったバルト海沿岸の都市・リューベックと比較した場合に、一桁近く多いらしい。

2)中国・朝鮮との交易
 1368年に元滅び明となる。また1392年に高麗滅び朝鮮となった。足利義満は、貿易の利益に
着目して、明との国交関係を開き朝貢形式による貿易を行った。足利義満は、遣明船の着津の度
に唐船見物と称して兵庫津に下向したと記録に残っている。李氏朝鮮とも公貿易が始まり、朝鮮
使節の日本に関する当時の記録が残されている。尼崎では三毛作が行われていたという。
また中継貿易を行っていた琉球からも入船していた。応仁の乱で破壊されるまで繁栄していた
兵庫津は、当時の繁栄を示す遺物・遺跡が今も眠っているという。

 こうして見ると、間違った歴史観は、時代背景を考えない無教養が創るという事が良く解る。
歴史観だけではない。様々な背景、各国の歴史的経緯、文化、組織・風土の違い等、様々な事を
考え合わせないと時局観もトンでもない間違いを起こしてしまう。大震災も大切だが国会議員が
皆で、大震災をワイワイいうのもどうか?結局、権力者は、「応仁の乱」の大名達の様に、
自分のことしかない?やはり問題の先送りでEUや米国の様になるしかない?如何なものか。
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室町時代とは? [歴史]

今回の京都散歩で、日本歴史を振り返った時に、私の中で室町時代という時代が、最も漠然としている事に気付かされた。室町時代のことを断片的に語る事は多いし、一般的な認識としては、日本歴史の中でも特に「面白い時代」、といわれているにも関わらず、何か、歴史的説明にスッキリしないものが有る。その原因は、この時代の日本史学的研究不足があるのではないか?
立命館大学文学部準教授・三枝暁子は、「公武統一と室町の王権」という記事で、佐藤進一(史学者・専門は日本中世史)の記事を引用して、戦前の「皇国史観」による言論統制で、足利・室町幕府の研究が停滞したと書いている。

佐藤進一が書いているように、明治、大正期に遡って研究し、日本中世史研究が、今や大幅に進んでいるのだろうか?私は室町時代の歴史が今、どれ程、実証的に解明されているか知らない。しかし日本中世史研究が、簡単に復旧できたとは思えない。なぜなら、膨大な戦争被害、戦後の貧困化、そして価値観の変化によって、日本中世史の研究に大きな空白ができた事。また、現今の「国旗、国歌問題」や、「皇統継承問題」等の論争でも明らかなように、今もって、過去の「皇国史観」を覆す事は、微妙な問題で、簡単にはいかないからだ。今も楠正成は忠臣であり、足利尊氏は逆賊でないと収まりがつかない?

だが、そうすると、蒙古来襲という未曾有の国難から救った、北条時宗(1251-1284)の桁外れの智謀・武勇と、その指導の下に、一糸乱れず戦った御家人たちの「武士の魂」が浮かばれない。
私は、蒙古侵入の粉砕に33年の全生涯をかけた北条時宗や、恩賞が貰えず、戦費を私費で賄い、没落していった鎌倉幕府の御家人たちこそ、真の「武士の魂」をもった人々だったと思う。その後の政治を引継いだ得宗衆(執権北条家縁故)は、財産に執着する亡者に過ぎなかった。

これからは、私の勝手な「室町時代」の新解釈?である。
得宗衆専制の閉塞感を打破するために、後醍醐天皇は、「親政」という破天荒な政策を打ち出したのである。これは、天皇から公家、公家から武家へと政治の実勢が移ってきた流れとは異なるものだが、真の「武士の魂」をさらに拡大育成していくためには、止むを得なかった?

室町時代は、不安定な時代だったようである。「室町」の名称は、足利義満が、京都北小路室町に花の御所を造営したことに因んでいるというが、実は、幕府の政庁も、いろいろと変遷しているようである(三枝暁子・前書)。鎌倉時代に開花した禅宗は、室町時代に、美術、武士の精神、剣道、儒教、茶道、俳句、その他、様々な分野に影響力を及ぼした。また、外国貿易も盛んだったようである。室町時代は、まだまだ解明されていない事が多いから面白い。如何なものか
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健康とサプリメント [健康]

サプリメントは、知人等から常用して健康管理に役立っているとの話や、TV・CM等で以前から聞き知っていたが、私自身は今まで、まったく利用していなかった。最近、ふとTV・CMを見ていて、お試しセットを依頼する事にした。依頼製品は「某社・グルコサミン&コンドロイチン」(写真参照)DSC08859サプリ.JPG膝関節の痛み等に効果があるという。理由は一昨年(2009)6.17から3ヶ月弱の中断もあったが、約二年間継続してきたスロージョギングである。今まで膝が痛くなっても、筋肉強化との追っかけっこで頑張ってきた。しかし最近は少し弱気になっていた。京都散歩等で、SJ(スロージョギング)を4日間休んだ後、二日間、40~50分のSJをしたら膝が痛くなった。丁度その頃、サプリが届いて飲み始めた。

このサプリを飲んで驚いた。最初に飲んだ時から、効果がある気がしたのである。今日で五日目だが、飲んだ翌日からの4日間は一時間以上のSJでも膝に違和感なし。
今日等は、炎天下、70分強のSJでも、膝は問題なかった。これだけ連続して負荷をかけて
問題がないとは驚きである。こんな即効性があるのか?

サプリの成分を調べてみた。
 グルコサミンは、グルコースの一部の水酸基がアミノ基に置換されたアミノ糖の一つ。
よく読むと、「グルコサミンは、単一成分またはコンドロイチン等との混合物として栄養補給
サプリメントとして販売されているが、経口摂取での変形性膝関節症の改善効果は医学的に
認められていない。」 おまけにもっと具体的但書があった。「放送媒体などにおける膝や
関節の痛みや疾患が本物質によって改善すると謳う通信販売の健康食品のエビデンスは曖昧」
と、書いているではないか?私の体験は幻か?

 次にコンドロイチン硫酸は、動物体内にみられるグリコサミノグリカンの一種。核となる
タンパク質に共有結合したプロテオグリカンとして存在。特に軟骨の細胞外マトリックス
にアグリカンと呼ばれるプロテオグリカンとして、ヒアルロン酸、リンクタンパク質と共に
超高分子複合体を形成し、軟骨の持つクッション作用に重要な役割を果たす。

 第三物質・クェルセチン(ケルセチン)は、抗炎症作用を示す。ヒスタミン生成・遊離等
炎症に関与するいくつかの過程を抑制するためと考えられている。此処まで調べたら、
私の服用したサプリは、コンドロイチンとケルセチンのお陰で、膝の痛みがなくなったという
ことになりそうである。今後、服用効果を追跡し効用を明らかにしたい。如何なものか
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京都散歩'11.09最終 [歴史]

DSC08849応仁.JPG先日の京都散歩で、御霊(みたま)神社(上京区)にお参りした。主祭神は崇道天皇(早良親王)である。その神社鳥居の横に、「応仁の乱勃発地」の石碑(写真)があった。昔の境内は御霊の森と呼ばれる広大な境内があり、文正二年(1467)、室町幕府管領・畠山政長ら(東軍)が陣を敷いて、山名方(西軍)と一戦を交えたのが応仁の乱の始まりらしい。戦いは年号が応仁に切替る3月以前の正月だったので由緒書には文正二年とある。室町幕府の跡目争いなどの内紛が、この戦い以降、全国規模の内乱に発展したのである。

主祭神の崇道天皇に関しては、ブログ「閑話2010.10.08」でも取上げたがこの時、参拝したのは、左京区・高野の崇道神社だった。早良親王(750?-785)は、桓武天皇と同腹の皇子であるにも拘らず、藤原種継暗殺事件(延暦4年<785>)の嫌疑をかけられ憤死した。早良親王の怨霊は凄まじく、桓武天皇の妃ら数人の病死や疫病の流行、洪水等が相次ぎ、延暦19年(800年)、崇道天皇と追称された。御霊神社は、平安京遷都の延暦13年(794)に桓武天皇の勅願で創祀された。ちなみに左京区・高野の崇道神社は創祀年代は不明。貞観年間(859-877)ではないか?と神社の栞には書いていた。他にも早良親王の怨霊を鎮める神社が奈良等にあるらしい。

藤原種継暗殺事件を細かく見ると、桓武天皇は、781年に光仁天皇から代替わりして、三年後、暗殺事件の前年(784)に、平城京から長岡京に遷都している。藤原種継は造長岡宮使だった。そのためか否か?延暦13年(794)、たった10年で平安京遷都を敢行している。当初の平安京の設計図は、実際にできた平安京よりもズッと遠大な計画であったという。10年で遷都を繰返したにしては、平安京の計画が立派過ぎないか?長岡京遷都には、東大寺や大安寺などの南都(平城京)寺院の影響力排除の狙いがあったというが、二段構えの遷都計画で、南都寺院の影響力排除を図ったとすれば、桓武天皇はしたたかなお人だった?早良親王も、東大寺の開山・良弁の信任が厚く、なかなかの人物らしかったから、「両雄並び立たず」ということか!
201109081530伏見桃山城.JPG
先日の京都散歩の最後は伏見桃山城(写真)。遠い昔、父と一緒に行った記憶がある。当時、再建したばかりだったと思う。伏見城-Wikipediaによると、1964年(昭和39年)に「伏見桃山城キャッスルランド」が伏見城花畑跡に建設され、模擬天守等が鉄筋コンクリート構造で造られた、とあるから、恐らくその頃だろう。驚いたが閉園されていた。近鉄の経営不振でリストラに会ったらしい。お陰で、散歩による静かなアプローチと観覧が出来、良かった。昔も今も、“栄枯盛衰常ならず” 如何なものか
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三井寺'11.09 [歴史]

昨夜は、仲秋の名月。就寝前に気付いてあわてて表に飛び出した。
月は既に中天に昇り、眺めていると首が疲れる。無風流な月見とあいなった。

芭蕉は、数多くの月見の句を残しているが、三井寺に因んだ句がある。
◎ 三井寺の 門たたかばや 今日の月 元禄四年(1691)、義仲寺・無明庵
月見の句会が催され、招待された人々が酒・肴を持寄っての楽しい宴だった。
盛上がって湖上に舟を漕ぎ出したと言う。湖上から月光に照らされた三井寺の塔頭を
眺め、月に所縁の深い三井寺の門を、今から敲こうか、と詠んだ芭蕉の心境や如何?

この句には、「推敲」という熟語成立の基になった唐代の僧・賈島(かとう)の詩
「鳥は宿る 池中の樹 僧は推す(おす) 月下の門」を踏まえている。この詩は賈島が
弟子になった文人且つ高官・韓愈(かんゆ)の助言で「僧は敲く 月下の門」に修正した。
もう一つは、謡曲・三井寺をも踏まえていると言う。物語は母子生き別れの子探し物。
子どもをかどわかされ、子探しの途中、京都・清水寺で霊夢を授かった駿河国(静岡県)
清見ケ関の母親が、三井寺を訪問する。狂女となった母親が、龍宮から持ち帰ったという
伝説にあやかって名鐘を自分も撞きたいといって撞く。それは丁度、仲秋の満月の夜で、
三井寺では住持が弟子らを連れて月見に出てくる。騒ぎの中、狂女の身元を確かめた上で
住持を頼ってきた子どもが狂女の子であることがわかる。かくして名月所縁の寺として、
謡曲・三井寺にゆかりの人々と心を通わせたいという気持が芭蕉に沸き起こったのでは?

DSC08841弁慶.JPGDSC08839閼伽井屋.JPG三井寺の資料によると、三井寺は、天武天皇の15年(686)、大友皇子の子・村主与多王によって建立された事になっているが、考古学研究などでは、更に古い時代からあったらしい。大津京は667年から、飛鳥浄御原宮へ遷都の672年まで天智天皇の都であったが、それ以前から三井寺の前身寺院はあったという。謡曲・三井寺に出てくる名鐘は、「弁慶の引摺り鐘」(写真)。
他に見ものは、閼伽井屋(あかいや)。格子戸の奥の岩屋から、天智・天武・持統の三帝が御産湯に用いられた冷泉が、今も昏々と湧き出ている。正面上部には、左甚五郎の作という龍の彫刻(写真)がある。先日訪れた三井寺に関しては、まだ書きたい事があるが、何時かまた!
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相国寺'11.09 [閑話]

先日、臨済禅・相国寺派の大本山である相国寺(しょうこくじ)を訪問した。私の目的は、
相国寺や塔頭寺院の国宝・重要文化財など多数の名宝を展示・公開している承天閣美術館の
見学であった。美術館は通常も開いているが、相国寺は普段は拝観できない。
春季・秋季に特別拝観が許される。

当日、承天閣美術館は、特別展示として「ハンブルク浮世絵コレクション展」をやっていた。
その事は知っていたが、常設展示品が、ほとんど見られなかったのは、大変残念だった。
ただ、「ハンブルク浮世絵コレクション展」も、一見の価値はあり、閉館まで二時間しか
なかったが、ギリギリまで粘って、ほとんど、しっかり見学した。
1つだけ、禅寺に相応しい浮世絵「一休禅師」があった。杖の先にどくろを差して、見せて
回っている一休禅師が描かれていて「正月や 氷をありく くつの音」の句が添えてある。
「浮世絵コレクション展」については、また、何かの機会に感想をまとめたい。

お目当ての名宝の数々を拝観する事はできなかったが、鹿苑寺大書院 月夜芭蕉図と、
鹿苑寺大書院 葡萄小禽図だけは見ることができた。(以下URLを参照のこと。
http://www.shokoku-ji.jp/j_meihou_jaku_syouhekiga.html )伊藤若冲の作である。
若冲については、2010-12-16のブログ:伏見散歩'10.12月[散歩] や2011-01-05、06の
NHK連ドラ「フェイク」 [物語]で取り上げた事がある。
伊藤若冲は、相国寺の113世住持・梅荘顕常の指導を受けた禅者である。

特に、「月夜芭蕉図」は印象に残った。維摩経で、悟りを得ない人間のはかなさを例えて
「是の身は泡のごとし。・・・是の身は芭蕉のごとし」等と言うらしい。そんな理由からか?
芭蕉は庭忌草と呼ばれている。それを金閣寺の大書院・壁画のモチーフにするとは!
大胆な構図で描いた芭蕉は、月光を浴びて、静かに輝いて見える。若冲、信念の大傑作!
悟りを得られない、はかない人間と、お偉方は、下々の者を憐れむが、そうだろうか?
月光を浴びて輝く芭蕉のなんと美しいことよ!“悟り”などという事を弄ぶ暇もなく、
勤勉に働き、懸命に生きる庶民の姿は、仏の慈悲を受けて、そのまま、この芭蕉と同様に
輝いて見えるのではなかろうか? 如何なものか
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「おひさま」第23週とは? [物語]

9月も「白露」(今年は9/8)を過ぎると、朝夕は格段に涼しくなる。しかし日中は
まだまだ暑い。今日も昼下がりの散歩を楽しんだが、妙な事に気付いた。
街路樹の陰が、実にありがたいのである。公園などの木陰を楽しむ事は良くあるが、
街路樹の陰が、夏散歩のオアシスだと、今頃気付くのは可笑しい? 私の考えた理由は
この時期迄の真夏・日中散歩は南北方向で、大通りを避け、家並の影を求めて狭い通を
歩いていた。しかし今日は曇天だったので、長距離の東西方向の散歩に出かけた。
処が、今日は真夏にも劣らぬ暑さになり、天候も回復したので僅かな木陰が憩いとなった。
年をとったセイもあるだろうが、そう考えたくないので、屁理屈を考えた次第である。 

さて「幸せの匂い」と題された「おひさま」第23週とは、何を物語りたかったのか?
いま一、要領を得ないのである。物語の時代は、昭和25年からあまり進展していない。
物語の残り時間は既に1割を切っている。何か終盤にどんでん返しでもないと締まらない?

昨日の「朝イチ」で、ゲストで高良健吾が出ていて、結婚相手としての陽子(役柄)に
ついて、有働が質問したら、高良は、「陽子と言う女性は理想的過ぎますから」と、
何気に語っていたが、これには深い訳があるのではないだろうか?
「おひさま」の作者・岡田惠和が作詩したという、タイトルバックの歌の歌詞に
“どこかで 私を 感じてて それだけで良いのよ”というフレーズがあるのが気になる。

今週の物語は、丸庵を焼け出されて絵本に出てくる「幸せの匂い」のする赤い屋根の家で
蕎麦屋を開業することに方向が決まった話であった。和成(高良健吾)は、皆の夢が叶う
ことが、夢だと言い、その線に沿っているからと、陽子(井上真央)の案に乗ったのだ。
赤い屋根の家で蕎麦屋を開業してしまったら、和成の夢は無くなってしまう。

育子(満島ひかり)と茂樹(永山絢斗)との関係にもケリが付いたし、
最早、物語る材料に窮してしまう。最後は、和成と陽子の問題に戻るのでは?
禅語に「行雲流水」という言葉がある。
「おひさま」物語は、まさに融通無碍、どんな事にも、右往左往せず、常日頃の経験から
見方、考え方を自在に操り、柔軟に物事に対処することを理想としている様に思う。
丸庵で育った徳子(樋口可南子)も、一時動揺したが、丸庵の跡地に未練を残さなかった。
自分の命以外で、最も大切なものはなにか?それを失うことにも耐えられるのか?最後に
陽子を対象とした決定的なストレステストが、課されるのではないか?如何なものか。
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大津-山科'11.09 [散歩]

2011-09-05付けブログの続編。昼食をとった品川屋は、琵琶湖疏水のすぐ近くだった。
そこから疏水の取水口まで1~2分。取水口から山科近くまで、琵琶湖散歩を楽しんだ。
実際は途中で三井寺にお参りしたが、本ブログでは省略した。写真を列挙する。
最初の写真が取水口。新三保が崎橋から撮った。水位観測所、旧三高漕艇部施設等が見える。
次が第一疏水揚水機場。3枚目は、疏水の柵(写真)。
DSC08831取水.JPGDSC08832揚水機場.JPGDSC08833柵.JPG





4枚目が三保が崎橋から京阪石山坂本本線の鉄橋と北国橋を望む。次の二枚の写真は「大津絵の道」に描かれていた大津絵。
DSC08834三保崎橋.JPGDSC08836大津絵2.JPGDSC08835大津絵.JPG
そして三井寺参詣後の小関越えの石碑。
DSC08843小関越.JPG

峠を越えて最初に目に付く設備が8枚目の写真:第1トンネル西口洞門、9枚目;緊急遮断ゲート、10枚目:藤尾橋から測水橋、11枚目:四ノ宮舟溜り・諸羽疏水入口
DSC08844第1トンネル西口洞門.JPGDSC08845緊急遮断ゲート.JPG
DSC08846藤尾橋から測水橋.JPGDSC08847四ノ宮舟溜りと諸羽疏水入口.JPG


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大津'11.09 [散歩]

DSC08827大津事件.JPG今日は、大津に行き、JR大津駅から真っ直ぐ琵琶湖に向かって歩き、旧東海道と交差する所から、今度は琵琶湖疏水の取水口に向かって歩いた。その道路沿いに、歩いていると、道路の左側に何やら石碑(写真:露国皇太子遭難地)が建っている。明治24年(1891)、帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた有名な大津事件の発端となった場所という。皇太子や接待などの貴人は人力車に乗っていたというが、幅の狭い道で、警護は難しかったろう。道幅は現在も当時と変わっていないそうである。まして警護中の巡査が切りつけたというのだから、たまったものではない。

そこを通り過ぎると、少し琵琶湖寄りの今度は商店街通りに切り替えた。途中に大津祭曳山展示館がある。そこの管理人(女性)が、大変熱心に大津の曳山の歴史を語ってくれた。大部分わすれたが、印象に残ったことが2つあった。1つは、大津のからくりを導入した曳山は、京都の山鉾に次いで古く、高山の山車は、大津を見習ったものということである。江戸から京都への五十三次の最後の宿場として、琵琶湖水運の要の港町としての繁栄ぶりがしのばれる。もう1つは、月宮殿山という山車を飾る毛綴織(タペストリー)のことである。16世紀にベルギーのブリュッセルで織られたものだという。この関連の作品が、京都祇園祭の鯉山鉾、鶏鉾などに分かれて使用されているという。どのような伝来ルートだったかは明らかではないそうだが、説明では、伊達正宗が慶長年間に遣欧使節として派遣した支倉常長が持ち帰ったものというのが面白かった。常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されているという。当時、超高価な品物だったはずだから、資料を当たれば明確に是非が分かるはず。今も由来が明らかでないというのは、支倉常長説が、不利なのではなかろうか?DSC08830品川.JPG

昼食は、京阪石山坂本線の三井寺駅前にある近江牛・品川亭で、近江牛丼を頂いた。写真は品川亭の外見。右側がお惣菜を販売し、食事処は、左側から入る。
遅くなったので、今日はここまで。
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おひさま第22週 [物語]

今年も9月に入った。気温が下がってうれしいが、台風12号のお陰か?
台風12号は、遅々として進まず、各地に大雨を降らし、大きな災害をもたらしている。
今週の「おひさま」も思わぬ火災に見舞われてしまった。
災害規模の大小に関わらず、被災者のご苦労は同様に大変だと思う。

さて、今週の「おひさま」の最初。陽子(井上真央)と分れる時の川原(金子ノブアキ)の
「よかったよ陽子ちゃん。初恋が実らなくて」というセリフ。最初私は、川原のひねくれた
僻みっぽい心から出たものと思っていた。しかし再度録画で、その時にみせた川原の笑顔が
すばらしい事に気づかされた。それで私は、戦争による心の傷は深くとも、川原はキッと
立ち直るという予感をもった。

さて“好事魔多し”というが、被災直前の丸庵は、幸せのオンパレードだった。
川原と別れ、気落ちして帰ってきた陽子を待っていたのは暖かい家族。日向子(井上琳水)は
「あれ吹いて」とハーモニカを取り出して、和成(高良健吾)にせがみ、和成は一日中練習
した「月の砂漠」を、懸命に吹いて聞かせる。下手なハーモニカ演奏に、しんみりとして
聞き入る陽子、徳子(樋口可南子)夫婦そしてあどけない日向子。正に幸せの瞬間だった。
気がかりだった杏子(金澤美穂)も丸庵に来て一緒に暮らす。また親友・ユキ(橋本真実)も
成功して、安曇野で食品・雑貨店を開業するという。陽子の夜の学校も大盛況である。
傑作なのはカヨ(渡辺えり)やミツ(安藤サクラ)。裁縫で制作した服を着たら惚れ直される
と言われて、「あれ以上に惚れられたらうっとうしい」との御託宣。ほんまかいな?

今週の「ふたたびの場所」というお題はどういう意味?杏子やユキが戻ってきたこと?
それとも、陽子が被災避難場所として、また実家に帰ってきたことなのか?
ともあれ、早、22週を過ぎ、残すところ12%。これからどう締め括るのか?
今日は、なぜかタイトルバックの歌の歌詞が、心にしみた。
“ひかりが射し 風が泳ぎ
 生きて行けると そう思えたの
 あなたは私の奇跡
 あなたは私の希望
 どこかで 私を 感じてて
 それだけでいいのよ“
光と風、それだけで小さな ささやかな幸せを感じ、生きて行けるのか?




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