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高梁川用水工事記念碑 [歴史]

今日は、孫の世話で神奈川方面に行く妻を駅まで見送り、倉敷イオンに寄った。
雑用もあったが、酒津公園でのスロージョギングを楽しむためである。真夏の日差しを
避ける木陰がふんだんにあり、空気も澄んで風も涼しく絶好のコンディションである。

2008.04.04のブログ「酒津・定点観測」でも少し触れたことのある用水工事竣功記念碑
(用水工事竣工記念碑)を改めて見た。5mはあろうかという巨大な碑である。
酒津貯水池に向かって立つ碑の碑文を改めて眺めた。遠目で判読が難しかったが、
大変なご苦労をした工事であり、完工した喜びが、文面に溢れていた。

そこでもっとチャンと知りたいと思って、高梁川東西用水組合に行って様子を聞いた。
碑の文面に関しては、現代文に翻訳した文章のコピーを頂いたが、後は分らないとの事。
ネットで調べたら、いろいろ分るだろうと思って帰宅後、調べたが余り情報がない。
頂いた現代語碑文は、結構貴重な資料のようなので、要点をかいつまんで記しておく。

用水工事竣工記念碑文(この碑文の日付は、大正14年(1925)4月)
1.高梁川改修の論議は、明治13年、17年の大水害あたりから始まった。
2.時の内務大臣に度重なる請願・陳情。明治25・26年の未曾有の災害で、人命、家畜の
  死傷、耕地・宅地の荒廃により、一層の改修に迫られた。
3.当局の熱心な陳情の結果、明治39年 改修の議案が通過。明治40年 着工に至った。

洪水の対策は出来たが、一方、総社・湛井(たたい)堰による取水で下流が渇水する対策を
とる必要が出てきた。(洪水対策によって、耕地面積が増加した?) 大正5年に
渇水対策として、現在の酒津貯水池を設けると共に、用水組合を統一することになった。
しかし、そのための調査と協定は容易に進まず、前後7年を費やしたという。
その時のことを、「共同施設の利益を体験している今(大正14年)からみれば、まるで
悪夢のようだが、当時は互いに譲るところが少なかった。ともあれ、融和・協調して
合同の目的を貫徹できたのは、実に地方100年の慶賀である」
4.総工費は、当初90万円の予算だったが、欧州戦乱(第一次大戦?)による経費膨張で
  279万円余になった。その内、197万円弱は国庫からの補助だった。

碑文だけを読んでも、全体像は中々浮かんでこない。
何故、これ程の大工事を、一般にわかりやすく、しないのだろうか?
この辺が、日本人が、みんな専門(たこ壷)に閉篭る原因ではなかろうか?


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