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「おひさま」第11週 [物語]

第11週は、昭和18年の大晦日から、昭和19年3月の卒業式、春休中?のエピソード。そして
4月の新学期と新しい学級の話、特に杏子(大出菜々子)妹・千津子(小西舞優)の話へ続く。
春休中のエピソードでは、兄(田中圭)と陽子(井上真央)や父・良一(寺脇康文)との別れ、
許婚を亡くした傷心の真知子(マイコ)への陽子(井上真央)の労り・友情などと共に、敗勢
色濃い戦時下、真知子の父・剛三(平泉成)と良一の大人たちの苦しい心情などが語られた。

陽子先生が、通常の授業では教えられなかった「命の大切さ、生きることの歓び」を
手紙に託して、卒業式に渡そうと考えた。しかしその手紙の束を校長の目の前に散らかして
校長からダメを出されてしまう。それで陽子が落込んでいる所を徳子(樋口可南子)から
聴かれ、陽子は「命の大切さなど」を教えられない生徒達が可哀相だと、説明。徳子から
そういう考え方では、「子どもが可哀想だ」と、陽子の心構えを正したのである。

ここで考えなければならないのは、戦前だから徳子の意見に従わざるを得なかった?
民主的社会なら、陽子の「子ども達が可哀想だ」と言う考え方は正しかったのか?
現代の具体的事例で言えば、国旗掲揚や国歌斉唱問題である。現在の日教組などは
「国旗掲揚や国歌斉唱をやらされる子ども達は可哀想だ」ということになる。
この議論には、様々な考え方、意見があると思う。その一端を考えてみた。

民主的な社会では、正義は常に討論による説得によって築いて行くしかない。
(日本では多くの裁判結果が、相互に矛盾するような傾向にあるので一貫性がない?
 だから、統一的正義があるはずもなく、部分的正義の対立する社会である)
従って政治的対立意見は、決して天下国家や、万民の為だと言い切れるものではない。

この様に、戦前も現代も、どちらも「子ども達」のこと抜きの自己中的な考え方では?
徳子の意見は、そのどちらでもなく、ただ卒業式の子ども達のことを考えているのである。
故に「子ども達が可哀想だ」と考え、国旗掲揚や国歌斉唱に絶対反対を続ける事を正しいと
考えるのは、子ども達のためではなく、自分或いは仲間の考え方を主張しているに過ぎない?

斯くのごとく「子ども達が可哀想」と言う意見も本当に子どものことを思うなら、一人一人
個別事象として、きめ細かく考えなければならない。その事例として期待されるのが
杏子・千津子姉妹の物語である。現代の杏子は、既に伊東ゆかりが演じて登場済みである。
きめ細かなお話に展開する予感がするのだが? 愉しみだ! 如何なものか
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