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兵庫津の道散歩・余話 [閑話]

201105261123石塔.jpg昨日の散歩話で書き忘れたことを少し書いておきたい。写真は平の清盛を供養
するための石塔(清盛塚と呼ぶ)である。清盛は養和元年(1181)に薨去され
福原の地に公の墓所があったが、平家滅亡後に破壊されたという。その後、
百余年後の弘安九年(1286)になり、時の執権・北条貞時が、平家一門の栄枯
盛衰を哀れんで、その近くに石塔を建て、清盛公の霊を弔った。
この事は、延宝八年(1670)の文献にも記されている。

大正11年(1922)頃、道路拡張工事のために、北東へ11m移動した。その時、
台石に「弘安九年」の刻銘があり、鎌倉期の優秀な十三重の石塔(高さ8.5m)であることが明確
になった。そういった事がキッカケかどうか知らないが、大正時代になってから、清盛講というのが
出来て、毎年盛大な供養が営まれていたという。清盛公は兵庫の大恩人と敬われていたらしい。

時代は下り戦国時代も末期。織田信長の勢力範囲に入った兵庫の地に「兵庫城」が築かれた。
それまでは室町幕府、東大寺、興福寺等の支配下だった。兵庫津には経が島(兵庫島)に
設置されていた兵庫関という関所があり、船の入港税、通行税などを徴収していた。
元々は、東大寺など寺社造営費勧進のためだったらしいが、利権に良からぬ連中が群がるのは
いつの時代も同じ。記録上に関所の存在が明らかになるのは14世紀以後だとのこと。
室町時代には、幕府、寺社が入り乱れて、争いが絶えなかった様である。

織田信長は、ご存知、楽市楽座を提唱したお人である。現代でいえば超減税派。
兵庫津の人々も喜んだだろう。徳川時代も、尼崎藩の陣屋があっただけというから、
比較的自由だったのではないか?明和六年(1769)には天領になったという。
私の育った神戸という町は、自由の気がみなぎる町だと感じていた。その伝統は明治以降だけ
ではなく、遠く織豊政権の時代からだったことを改めて知った次第である。

こうして歴史を大きなスパンで考えると、現代の減税政策も、あながち間違いとは言えない?
「生活保護を受けた方が得」と考えるような社会では、幾ら徴税してもザルで水をすくうようなもの
ではないか?先行きどうしようもない?税金という利権が大きいほど、様々な人間が入り乱れて
奪い合う。税金は官僚支配の肥やしにするだけである。戦ってムダにするに決まっている。
思ったほど税が集まらず、また増税すると言うのは目に見えている。それより、皆が頑張って、
納税を喜んでやるような社会にする方が良いのではないか?如何なものか。
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