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兵庫津の道散歩 [散歩]

今日は、午前中から散歩に出た。神戸の観光ガイドマップには、港・市街地観光用、灘の酒蔵
観光用、兵庫津の道観光用、北野観光用、六甲山観光用、有馬温泉観光用、須磨観光用、
西神戸観光用などが取り揃えられている。インターネットは:http://www.feel-kobe.jp/
今回は「兵庫津の道」を散策した。残念ながら、「兵庫津の道」に関して私の知識は皆無に等しく、
マップの読み方も難しい。目標を定めてもなかなか!あてどない散歩となった。
201105261056兵庫大仏.jpg
最初に漂着したのは、“兵庫大仏”。明治初年の排仏毀釈により、
仏教界は壊滅的状況?それを兵庫の豪商・南条荘兵衛の発願によって、
巨大な盧遮那仏(写真)が建立されたという。以来、奈良、鎌倉と並び、
日本三大佛に数えられているという?そのお陰か、その後、この兵庫一帯は
大いに栄えて神戸一の繁華街を誇ったという。
残念ながら、その当時のものは、昭和19年5月、金属回収令によって
元の金属に戻された。今日の「おひさま」でも、なべ・釜などと一緒に、
様々な思い出のある陽子(井上真央)の自転車も供出されて、悲しい別れをしていた。
現在のものは平成三年(1991)47年ぶりに再建された。

次は一遍上人(1239-1289)入寂の地。上人は法然-証空-性達と浄土宗西山流を継いだ。
正応二年(1289) 兵庫の観音堂(現・真光寺)で安らかに入寂されたという。
一遍上人の詠んだ歌が、廟所の説明版に書かれていた。
◎ 旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき
兵庫津は、平の清盛によって繁栄したというよりは、元々、瀬戸内海でも屈指の良港として
栄え、そこに清盛が目をつけたという方が正解ではないだろうか?平家一門が滅んでから
既に百年を経過した頃に一遍上人のような人が最終的な布教の地に選んだのだから、
兵庫津の繁栄は衰えていなかったと言うべきだろう。

最後のスポットは平経俊(たいらつねとし)。一の谷の合戦で戦いに利あらずと、西出の浜へと
落ち延びたが、源範頼の郎党・名和太郎に追われ、組み打ちとなったが当地で落命した。
時に寿永3年(1184)2月7日、18歳だった。弟の敦盛を討った熊谷次郎直実は、それがもとで
後に法然を頼り出家した。その辺りが当時の作家の魂を揺すり、平家物語のハイライトシーンと
なって、能、謡曲、歌舞伎にもなって敦盛は超有名人だが、兄の経俊は忘れ去られた。
経俊を討った名和太郎は、教養もない田舎武者で絵にならなかったのか? 如何なものか
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