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新鮮な出会い [現代詩]

DSC08756茨木.JPG私は、元来「現代詩」を余り好きでなかった?和歌や俳句のある日本では、短い詩形で十分ではないか?と思っていた節がある。そんな私が、茨木のり子という詩人と最近「新鮮な出会い」をした。大正15年(1926)に生れた彼女は、平成18年(2006)に亡くなっているから、詩を介しての出会いである。最初に出会った「倚りかからず」という詩は、同じ題のついた1999年発行の詩集に掲載されている。この詩集は、例外的に良く売れたらしい。残念ながら当時の私は、詩を読みたくなるような心境ではなかった。

茨木のり子に興味を持った背景には、TV小説「おひさま」の主人公・陽子と同世代であることもあった。詩人・茨木のり子との新鮮な出会いに心が踊り、速読した幾編かの詩を基にして、ほんの少しだけ彼女の生々しい生き方を探ってみた。

初期の詩集を読むと、彼女の苦悩が透けて見える。例えば1955年発行の詩集『対話』
「もっと強く」という詩の最後で、「ああ わたしたちが もっともっと貪婪にならないかぎり なにごともはじまりはしないのだ。」という雄叫び。55年体制に対する不満。60年安保闘争へ向けての意欲が感じられる。しかしまた、次の詩「小さな渦巻」では、「ひとりの人間の真摯な仕事は おもいもかけない遠いところで 小さな小さな渦巻をつくる」といい、最後には、「私もまた ためらわない 文字達を間断なく さらい 一片の詩を成す このはかない作業を決して。」と、結ぶ。個人と集団との間で、引き裂かれている?
そして、最後の詩「準備する」で、その分裂を回避することなく、うたいあげる。最後の方だけを引用しよう。「あるいはついにそんなものは 誕生することがないのだとしても 私たちは準備することをやめないだろう ほうとうの 死と 生と 共感のために。」

詩「倚りかからず」は、「自分の二本足で立って何不都合やある」といい、「倚りかかって良いのは椅子の背もたれだけ」と、下手なオチ。しかしユーモアたっぷりに結末をつける。
詩「倚りかからず」の前の詩が、「時代おくれ」。河島英五の同名の歌を思い出すが、詩の内容には次のような下りがある。「そんなに情報集めてどうするの そんなに急いでなにするの 頭はからっぽのまま」・・・中略・・・「何が起ころうと生き残れるのはあなたたち まっとうとも思わずに まっとうに生きているひとびとよ」。そして「倚りかからず」の後に続く詩は、「笑う能力」という題で、読むと腹が捩れるほど面白い言の葉が続く。種明かしをすると面白みがなくなるから最後のオチだけ。
オチは「気がつけば いつのまにか 我が膝までが笑うようになっていた」
初期の詩集にはない清々しさ、融通無碍の老境がしのばれる。 如何なものか
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