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国会'11.05.31中継雑感 [社会]

今日、午前中の国会中継を視聴していて、この国の政治は大丈夫なのか?
本当に心配になってきた。あきれ果ててモノも言えない状況(杜撰な政府の管理状況)が
国会討論の中で、逐一明らかになってきたからである。

問題の発端は、3/12福島原発海水注入時期、中断の有無など政府対応の不手際追及だった。
しかし問題はもっと深刻であることが、今国会で中川秀直氏(自民)から引き出された証言
(東電・武藤副社長、原子力保安院・寺坂院長、原子力安全委員会の班目(まだらめ)委員長)
から分った。
従来の問題点は、菅首相の余計な口出し(再臨界の心配)で海水注入時期が遅れたのでは?
ということだった。しかしこの問題は、5/26時点、福島第一原発・吉田昌郎所長の判断で、
継続されていた事が明らかになった。班目委員長も、その事実を知って、5/26の記者会見で
「中断がなかったのなら、私はいったい何だったのでしょう」と、自嘲気味に語ったという。

菅首相の余計な口出しの尻拭いの(野党の国会追及から逃げる)ために、菅首相をはじめ、
政府、原子力災害対策本部関係者は、訳もわからず、口裏あわせをしていた事になる。
吉田所長の英断で中断されなかった事が明らかにされた5/26時点で、彼らは嘘に嘘を重ねる
悪行から開放され、ホッ?海水注入関連の実害はなかったのだから目出度し!目出度し!?
まるで、そんな感じで、堂々としていた菅首相。蛙の面にションベンのような面構え?

しかし国の政治とは、そんなお粗末でやっていけるの?命令系統、連絡系統など滅茶苦茶?
原子力災害対策本部とは、何のタメにあるの?首相の尻拭いのタメ?
政府首脳、原子力災害対策本部・主要メンバが、吉田所長の英断を二ヶ月半も知らなかった?
そんな風通しの悪い組織で、真ともな仕事が出来るわけがないのでは?
首相のスタンドプレーばかりを援護するナルシシズム集団で、この国難をやっていけるの?

水鳥は優雅に寛いでいると見えて、水面下では必死に水を掻いている。本当の政治家も普段は
遊んでいると見えて、見えない所で努力し、いざという時に縁の下で皆を助けるのでは?
自分の手柄ばかりを強調し、人の努力を評価しない人々の集団では碌な政治は出来ない?
谷垣禎一総裁も、明日の党首討論の結果を見て、不信任案提出を決断するだろう。
こんな時に政局ではないという意見もあるが、こんな酷い政府は、こんな時だから許せない?
今日の冒頭質問者・階猛議員(民主)は「トップの指示に反しても復興に役に立つことを実行して
いきたい」と言ってのけた。小沢元代表一派の造反も十分に考えられる。如何なものか
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ナルシシズムの恐ろしさ [閑話]

オーム真理教などの例を引くまでもなく、ナルシシズムに陥る集団が発生する事がある。
その理由の1つに、間違った瞑想による経験によって強化されるということがある。
神秘的経験を、真理への到達と勘違いして、トンでもない方向に進むという事である。

「禅」の修業などにおいても、神秘的経験と、論理的説明との二つを大切にする。
神秘的経験だけによって勝手な解釈をしないという事が、非常に大切にされている。
論理的説明は、正しい見解・解釈という事であるが、最終的には“師”の導きである。
チベット仏教などにおいても、「正しい見解のない瞑想は、目を閉じて歩く様なもの」
と、言われている。正しい道が分らないで、迷ってしまうということである。

さて、民主党の政治状況を見ていると、最早、「正しい見解・解釈」を指し示す“師”も
論理的説明も、何処にありや? と、いう状況にあるのではないか?
それでも菅首相が、疲れも見せずに頑張り、民主党としてもついて行っている根拠は?
何処に、そんな素晴らしいエネルギーが隠されているのか?不思議である。

私の少ない知識で速断するのはおこがましいが、そのエネルギーは集団ナルシシズムでは?
これは、私の憶測に過ぎないが、菅首相や、民主党の人々は、間違った神秘的経験を、
真理と勘違いして、集団ナルシシズムに陥っているのではないか?と、心配する。
民主党の人々も、皆さん、立派な政治家である。だから、一生懸命に沈思黙考している?

残念ながら民主党は「東日本大震災」など想定外の偏った認識下、「政権交代」を目的に
していたために、現状の政治を引っ張っていく上で必要な「正しい見解」を持たない。
それにもかかわらず、自分達が一生懸命取組んでいるのだから、正しいに決まっていると
居直る態度が、集団ナルシシズムにはまっている確たる証拠ではなかろうか?

民主党の人々は、自民党だって、どこだって自分たちと変わり映えしないと考えている?
その意見が、正しいか?間違っているか?が、問題なのではない。
最早、自分達の姿を客観的に振り返ることもできない「集団ナルシシズム」徴候が問題なのだ。
2011.05.24のブログ「政治と義」で“菅首相は質問の趣旨が分らない等と「分らない」を
オームのように繰返していた。”と書いたが、日本語を理解しても、人の心を理解できない
という事を言いたかった。人の心を理解できないで首相は務まらぬ? 如何なものか
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「おひさま」第8週 [物語]

今週は昭和18年(1943)になり、NHKTV小説「おひさま」も32%を消化した。大正11年(1922)
生れの陽子(井上真央)は21歳。ドラマ開始からの11年で、32%は、結構大きな比重では?
10歳から90歳までの80年間の中に占める青春時代の重みは、均等には割り振れないだろう。
しかし陽子世代の人々は、自己の青春時代を、あまり語っていないのではなかろうか?
理由には、青春時代の自己の価値観が定まらず、戦前と戦後の価値観の違いを意識して物語る
事が難しいということもあるのではないか?また長い戦後の価値観に慣れてしまった現在では
聞き手側に戦前の価値観が不自然に思われることも多いだろう。

例えば、5/23(月)のオープニングのシーンで、小学唱歌「兵隊さんのおかげです」
♪ 肩を並べて兄さんと 今日も学校へ行けるのは
   兵隊さんのおかげです お国のために お国のために戦った
   兵隊さんのおかげです 兵隊さんよありがとう
という歌声が教室から聞こえてくる。「軍国主義」絶対反対の私など、一瞬、嫌な気分になる。
しかし考えてみれば、そういう感覚も、戦後の行過ぎた洗脳によるものかも知れない?
現在、東日本大震災の被災者児童等が、自衛隊に置き換えて歌ってもおかしくはないだろう。

召集に嘆く母親(角替和枝)を慰めるタケオ(柄本時生)の言葉、「・・・・お国のために働くのは
やっぱりうれしいよ!男としちゃ。間違ってるかね?おじさん!」にも、当時の若者の素直な
気持が表れている。 今週の最後、茂樹(永山絢斗)との別れを物語った後で、
現代の陽子(若尾文子)が話相手の房子(斉藤由貴)に言って聞かせた言葉
「あの戦争(第二次世界大戦)は間違っていたんでしょうね。でもね、私だけはそう思わない。
死を覚悟したあの気持を無駄なんて言わさない。・・・尊敬する。・・・誇りに思う。」は、
この物語の背骨ではなかろうか?
こういった気持は、近親者を亡くした多くの人々にもあることを、私はよく知っている。

吉村昭が、「関東大震災の震災記念日の番組で、関東大震災の報告書・「震災予防調査会報告」
を読んだ人が誰も居ないので虚しさを覚えた」と述べている。「東日本大震災」を未曾有の災害
といって大騒ぎするが、犠牲者の数で言えば、関東大震災の比ではない。
更に言えば、第二次世界大戦による甚大な被害を思い返せば、「東日本大震災」に対する対応も
少しは違ってくるのではないだろうか?起こった事象を、時間的に少し離れた角度から見るという
発想がない。だから、起こった当座は、近視眼的に右往左往と大騒ぎするのだが、時間がたって
しまうと、色んな価値観の変遷に流されて、すぐ忘れ去られてしまうのではなかろうか?
それは、関東大震災も、第二次世界大戦も同様である。



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兵庫津の道散歩・余話 [閑話]

201105261123石塔.jpg昨日の散歩話で書き忘れたことを少し書いておきたい。写真は平の清盛を供養
するための石塔(清盛塚と呼ぶ)である。清盛は養和元年(1181)に薨去され
福原の地に公の墓所があったが、平家滅亡後に破壊されたという。その後、
百余年後の弘安九年(1286)になり、時の執権・北条貞時が、平家一門の栄枯
盛衰を哀れんで、その近くに石塔を建て、清盛公の霊を弔った。
この事は、延宝八年(1670)の文献にも記されている。

大正11年(1922)頃、道路拡張工事のために、北東へ11m移動した。その時、
台石に「弘安九年」の刻銘があり、鎌倉期の優秀な十三重の石塔(高さ8.5m)であることが明確
になった。そういった事がキッカケかどうか知らないが、大正時代になってから、清盛講というのが
出来て、毎年盛大な供養が営まれていたという。清盛公は兵庫の大恩人と敬われていたらしい。

時代は下り戦国時代も末期。織田信長の勢力範囲に入った兵庫の地に「兵庫城」が築かれた。
それまでは室町幕府、東大寺、興福寺等の支配下だった。兵庫津には経が島(兵庫島)に
設置されていた兵庫関という関所があり、船の入港税、通行税などを徴収していた。
元々は、東大寺など寺社造営費勧進のためだったらしいが、利権に良からぬ連中が群がるのは
いつの時代も同じ。記録上に関所の存在が明らかになるのは14世紀以後だとのこと。
室町時代には、幕府、寺社が入り乱れて、争いが絶えなかった様である。

織田信長は、ご存知、楽市楽座を提唱したお人である。現代でいえば超減税派。
兵庫津の人々も喜んだだろう。徳川時代も、尼崎藩の陣屋があっただけというから、
比較的自由だったのではないか?明和六年(1769)には天領になったという。
私の育った神戸という町は、自由の気がみなぎる町だと感じていた。その伝統は明治以降だけ
ではなく、遠く織豊政権の時代からだったことを改めて知った次第である。

こうして歴史を大きなスパンで考えると、現代の減税政策も、あながち間違いとは言えない?
「生活保護を受けた方が得」と考えるような社会では、幾ら徴税してもザルで水をすくうようなもの
ではないか?先行きどうしようもない?税金という利権が大きいほど、様々な人間が入り乱れて
奪い合う。税金は官僚支配の肥やしにするだけである。戦ってムダにするに決まっている。
思ったほど税が集まらず、また増税すると言うのは目に見えている。それより、皆が頑張って、
納税を喜んでやるような社会にする方が良いのではないか?如何なものか。
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兵庫津の道散歩 [散歩]

今日は、午前中から散歩に出た。神戸の観光ガイドマップには、港・市街地観光用、灘の酒蔵
観光用、兵庫津の道観光用、北野観光用、六甲山観光用、有馬温泉観光用、須磨観光用、
西神戸観光用などが取り揃えられている。インターネットは:http://www.feel-kobe.jp/
今回は「兵庫津の道」を散策した。残念ながら、「兵庫津の道」に関して私の知識は皆無に等しく、
マップの読み方も難しい。目標を定めてもなかなか!あてどない散歩となった。
201105261056兵庫大仏.jpg
最初に漂着したのは、“兵庫大仏”。明治初年の排仏毀釈により、
仏教界は壊滅的状況?それを兵庫の豪商・南条荘兵衛の発願によって、
巨大な盧遮那仏(写真)が建立されたという。以来、奈良、鎌倉と並び、
日本三大佛に数えられているという?そのお陰か、その後、この兵庫一帯は
大いに栄えて神戸一の繁華街を誇ったという。
残念ながら、その当時のものは、昭和19年5月、金属回収令によって
元の金属に戻された。今日の「おひさま」でも、なべ・釜などと一緒に、
様々な思い出のある陽子(井上真央)の自転車も供出されて、悲しい別れをしていた。
現在のものは平成三年(1991)47年ぶりに再建された。

次は一遍上人(1239-1289)入寂の地。上人は法然-証空-性達と浄土宗西山流を継いだ。
正応二年(1289) 兵庫の観音堂(現・真光寺)で安らかに入寂されたという。
一遍上人の詠んだ歌が、廟所の説明版に書かれていた。
◎ 旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき
兵庫津は、平の清盛によって繁栄したというよりは、元々、瀬戸内海でも屈指の良港として
栄え、そこに清盛が目をつけたという方が正解ではないだろうか?平家一門が滅んでから
既に百年を経過した頃に一遍上人のような人が最終的な布教の地に選んだのだから、
兵庫津の繁栄は衰えていなかったと言うべきだろう。

最後のスポットは平経俊(たいらつねとし)。一の谷の合戦で戦いに利あらずと、西出の浜へと
落ち延びたが、源範頼の郎党・名和太郎に追われ、組み打ちとなったが当地で落命した。
時に寿永3年(1184)2月7日、18歳だった。弟の敦盛を討った熊谷次郎直実は、それがもとで
後に法然を頼り出家した。その辺りが当時の作家の魂を揺すり、平家物語のハイライトシーンと
なって、能、謡曲、歌舞伎にもなって敦盛は超有名人だが、兄の経俊は忘れ去られた。
経俊を討った名和太郎は、教養もない田舎武者で絵にならなかったのか? 如何なものか
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親戚訪問 [散歩]

今日は、昔御世話になったおば宅を訪問した。
90歳を過ぎても、久しぶりに会った私のことも即座に思い出し、いろいろとお話した。
聞いてみると、生まれは大正8年、「おひさま」の陽子よりも3歳年上である。
長生きの秘訣を伺ったら、おば曰く、「前向きな気持ち」とのことである。
私などは、ついつい消極的な言葉を吐くことが多い。確かにおばさんはすべて前向きだ。
今はもう、足がお悪くて歩く事はできないが、決して愚痴などはこぼさない。
足が悪くなった事に関する話題も、何度もリハビリで歩けるように回復した成功体験だけ。
だから、私が思うに、彼女は歩けなくなったという絶望感はない?
また歩けるようになるという希望にも拘らないのではないか?と推測してみたりした。

茨木のり子の詩集『倚りかからず』の最後の詩「ある一行」で、
“絶望といい希望といってもたかが知れている
うつろなることでは二つともに同じ
そんなものに足をとられず 淡々と生きて行け!・・・・”
と、謳ったが、その言葉は、まさにおばの思考とピタリと重なる。

「歩けなくなった!」と絶望する必要もなければ、「歩かなければ!」と焦る事もない?
おばの心中に歩けない苦しさがないとは言えないかもしれない。
「年をとるということは、大勢の皆さんのお世話になるという事だと分りました」という
言葉は、大変に含蓄のある言葉であり、深く深く噛み締めてみる言葉だと思う。
そういう「苦」を、消極的に受け止めず、前向きに生きるところが素晴らしい!

帰路は、久しぶりに阪急電車に乗った。
緑の色も濃い六甲山や摩耶山が眩しく、懐かしく、山野を駆け巡った十代の頃を思い出した。
夜は旧友と楽しく歓談。夜の10時前には別れたが、街に活気がないのが気になった。
そういえば、西宮からの阪急の特急も空いていた。平日の午後だからだろうか?
私は、昔と違って、今の静かな街の方が好ましい。如何なものか
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政治と義 [閑話]

昔、神の教えに従う忠義の人々は「義」を行う事によって、その見返りとして「利」を得た。
「利」は「義」の代償で、「義」の後に来るものであった。
時代が下って「義」は、神の教えを行うのではなく集団の総意を行う事と解釈された。
昨日今日の「おひさま」では、タケオ(柄本時生)が召集を受けて出征するにあたり、
親子三人が須藤家に押しかけて、会食する場面があった。出征を嘆く母親ハル(角替和枝)に
タケオは「自分がお国のために役立つ事は誇らしい。だから嘆くのはやめてくれ」と言っていた。
当時は日本という国家集団が決定した戦争遂行が「義」であり、それを信じて頑張った時代。
あの時代も「義」は「利」に先んじるものであった。

「おひさま」で、母親ハルが愚痴る姿は涙を誘う。女優・角替和枝は、柄本時生の実の母親
というから、演技も真に迫って名演技だと感じた。我々は悲惨な戦争の結末と、その後の
世の移ろいを知っているから、利己的な母親を非難するどころか同情し母性に心打たれる。
お国の為という言葉に踊らされた人々はバカをみたと感じている、というのが現状である。

さて、昨日の国会討論では、追及する谷垣総裁と、逃げる菅首相は「すれ違い?」
「震災復興特別委員会」と銘打った国会討論の場で、菅首相は質問の趣旨が分らない、
何が問題なのか分らない、と「分らない」「分らない」を、オームのように繰返していた。
国の命運をかけた震災復興のための国会討論で、震災復興という「義」より自己保身、
党利党略のための「利」を優先している姿勢が明らかであった。

敗戦後の時代の流れで現代日本は国家への不信感が根強い?従って現代では「復興のための
議論とはいえ、自分の幸福、自分の地位保全、政治的立場の保全という“利”を優先すべきだ」
という菅首相の姿は、止むを得ない?私には、そういう利己的姿はタケオの母親ハルと重なって
見える。そうすると政治は主観的だから「利」を優先する菅首相の行為にも納得がいく?

この時、私の心に母親ハルからの抗議が届いた。彼女の抗議の趣旨は以下の通りである。
1.私の場合は、かけがえのない一人息子の生命であり、菅首相の犠牲とは天地の差あり。
2.私は、一庶民の立場である。菅首相は、国家の最高権力者で、影響度が大きく異なる。
3.第二次世界大戦は「義」に疑問が残る。今回の復興対策の「義」に疑問の余地なし。
私は、何とか時代の変遷、価値観の変化から、菅首相を弁護するために、「おひさま」の
タケオの母親ハルを引き合いに出して、政治の主観性という観点から論じた。しかし弁護に
無理があったようだ。現代にも明らかに「義」はあり、優先すべきでは?如何なものか
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国会'11.05.23中継雑感 [社会]

昨日、今日と雨天が続く。昨日は夕方から上がり何とか散歩のノルマを果たした。今日は
震災復興特別委員会と銘打った国会討論を視聴。冒頭の質問者は自民党総裁・谷垣禎一氏。
原発事故対応における事故直後の問題点を追及する場面だった。相変わらずの‘逃げ菅’?
菅首相は質問の趣旨が分らない、何が問題なのか分らない、と分らないことだらけである。
いつもなら早々にスイッチを切るか、チャンネルを切替えるのだが、今日は辛抱した。
菅首相は、何故こういう態度に徹する事ができるのか?その要因と対策を考える為である。
しかし一時間が限度?延々と続く菅首相や政府閣僚の話には、ホトホト疲れてしまった。

国会中継の視聴を諦め、雨の上がるのを待たず雨天散歩を決行。一日一万歩のノルマ達成。
そんな雨天散歩途上、今朝の国会中継における菅首相らの「逃げ」の問題を考えた。
考察は、‘逃げ菅’の態度は社会人、政治家として許される態度か?否か?という事である。
これは主観的な問題だから、政治・社会制度によって異なるだろう。仮に絶対権力者(例えば
絶対君主、宗教的独裁者)の存在する社会では絶対権力者が決定する?然らば民主主義社会で
はどうなるか?現在の日本は首相公選制ではないから、国会(衆議院)の国会議員による判断と
なる。全員参加民主制であろうと代表制民主制であろうと、多くの人を説得しなければ、首相を
交代させる事は難しい。従って、私は菅首相の何処に問題があるかを、明確に指摘して、
多くの民衆を説得することを考えた。

そして、私は‘逃げ菅’の答弁を思い出しながら、以下の様な仮説で彼の問題点を整理した。
1.菅首相の思考態度は、科学主義的客観主義と呼べるようなものである。
  その証拠に、都合の悪い政治的行動に関する質問に関しては、自らの行為は議事録内容に
  還元されてしまっている。その行為に纏わる自分の思いや理念は簡単に捨象される。
2.政治活動における科学主義的客観主義の思考態度は、社会のためにならない。
  民主党は小さな党の寄せ集めで出来た党のために党員とリーダ層が乖離、非民主的党運営
  を行ってきた。それを民主的に見せかける手法の一つが科学主義的客観主義?

菅首相の答弁を聞いていると虫唾が走る。何故なら無機質な答弁によって、自己の正しさを如何
にも客観的事実の様に主張するからである。従来の首相で、自己を客観的に正しいと言う顔を
した人はいなかったのでは?政治活動は、人間の活動の中で最も主観的な活動だから。
しかし菅首相のガードは意外と固い。彼が、大震災対策をまるで、日常の事務処理のごとく
平然とこなして、一向に疲れを見せないのは、あの大惨事にも全く心を乱されないからでは?
その根本に科学主義的リアリズムがあるとすれば、非常な危険思想の持主?如何なものか
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「おひさま」第7週 [物語]

今週から昭和16年(1941)、師範学校卒業の陽子(井上真央)は、母校の小学校(有明山国民
学校)に赴任。陽子先生は憧れの恩師・高橋夏子先生(伊藤歩)が同僚で本当に助かった。
何せ校長は鐘を鳴らすだけ。中村(ピエール瀧)等の代用教員がやたらのさばっている。
他の先生も今のところ存在感がない。国民学校は、子供たち(小国民)を歩兵に育てる場所と
中村等が言っていたが、代用教員は、軍部の兵士早期育成計画を担う立場だった?
校長以下、先生諸氏は、そんな風に勝手に憶測して「触らぬ神に祟りなし!」だったのか?

兵士育成の一貫である海軍体操(鍛錬)の授業で、陽子の生徒・ミチオ(鏑木海智)が、皆と
リズムが合わず隊形を乱す。中村が怒って竹刀を振り下ろす刹那、陽子先生はミチオを庇って
竹刀に打たれ気絶したが大事に至らず、すぐに職務に復帰した。中村は職員室に戻った陽子に
謝るが、陽子も自分の非を詫びたので、中村もホッとして陽子が鬼の形相だったと同僚の福田
(ダンカン)に口走る。それを聞きとがめた陽子と中村の口論になる。結局は陽子が折れて
口論は終結した。教室では、圭介(平岡拓真)ら学級の皆に助けられてミチオが海軍体操を
立派にやれるようになった。目出度し!目出度し!?

当時は男尊女卑の時代で、お茶汲みをはじめ、職員室の掃除や宿直室の掃除・準備等は全て
女性教師の仕事だったという。陽子は、忙しいと思っても深くは考えなかったと回顧していた。
また体罰を伴う教育も認められていた時代、ミチオの竹刀体罰に関する陽子と中村の口論も、
深くは考えなかった?ここでは、これらの問題に深く突き進む気はない。しかし何れこの物語の
何らかの事を題材にして、再度、これらの問題にかかわる可能性があるかもしれない。
何故なら、これらの問題は、時代の価値観や道徳観の変遷で割切れる問題では無いからだ。

陽子先生は半年の経験を積んだ昭和16年の秋、後年、夢にまでみる失敗をした。失敗とは、
バケツを壊した幹太(相澤大翔)を叱り、修理完了まで居残りを命じ、それを忘れて帰宅して
しまった事である。最初の起点は、「物を大切にしよう」という学習(修身?)にあった。
「物を大切に」という言葉には、物を作った人(第一次、第二次産業)流通した人(第三次産業)等、
多くの人々のことを思い、感謝する心を育む、という意味が込められている。
ドラマでは修身指導案の作成と失敗との関係を直接には示していない。実際は、修身指導案を
「物を大切に」を骨子として練り、最後の仕上げで書類に書込む段階で愛弟子・幹太の事件が
勃発したのではないかと私は推測する。さすがの陽子も動揺して事件を忘れたい深層心理が、
置去り事件となったのでは?それにしても話が上滑り! 80年を150×15=2250分 即ち
40時間弱で語るのだから、仕方がないか? 「てっぱん」が懐かしい!如何なものか
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新鮮な出会い_こぼれ話 [閑話]

大昔、小学生か中学生ぐらいの頃、何かの式典で、校長先生が
“「人」という字は、互いに支えあっている姿を示している”という訓話をしてくれた。
「独立自尊」こそ大切だと、すでに誰かに教わっていた私は、校長の話を奇異に感じた。
世の中に出ると、校長先生のいう通り、「持ちつ持たれつ」、「お互い様」
「独立自尊」などは、空想の世界、我々庶民とは別世界のことだと、観念した。

それから幾星霜を過ぎて、すでに白髪三千丈。はからずも茨木のり子の詩「倚りかからず」
と出会った。この詩を冷静に、理屈っぽく読むと、実は穴だらけなのである。

「倚りかからず」という詩は
“もはや できあいの思想 宗教 学問には倚りかかりたくない
 いかなる権威にも倚りかかりたくない“
と謳っているが、
それなら、新しいor独創的な思想 宗教 学問なら倚りかかってもいいのか?
人やもの(金品)には、倚りかかってもいいのか?
イチャモンは、幾らでもつけられる。にも拘らず、私がこの詩によって、彼女の世界を
垣間見たいと思ったのは、私の中に、直感的に響き合うものがあったからだと思う。

茨木のり子は、「おいてけぼり」という随筆の中で、流行に関する記述がある。
“ミニ全盛の頃、私は殆どのスカートを切ってしまって、今(昭和50年頃?)後悔すること頻り、
気に入っていたスカートの裾を、またぞろ出来るだけ伸ばして、ヘムなどつけている自分が、
哀れになる。断乎として切らず、進んで「おいてけぼり」をくい一サイクル待った「きんぴら夫人」
も身近にいるのであった”

ミニの流行は、1960年代後半からで1973・4年には終焉したという。
1969年(昭和44年)に首相・佐藤栄作の訪米に同行した首相夫人・佐藤寛子は当時62歳の
年齢でミニスカートを着用したという。ミニ全盛の頃、ぎりぎりアラフォーだった茨木のり子が、
ミニに のめり込んでも致し方ない?それにしても、流行に対するミーハー的感性といえる?
こういった感性は、時代の動向や、思想などにも過敏に反応し過ぎるきらいがあるだろう。
この様な部分が私と響きあった? さて「おひさま」の須藤陽子は、「きんぴら夫人」か?
注)きんぴらとは、江戸時代の浄瑠璃のヒーロー「金平」という豪傑。
  ここでは、流行に流されない“保守的な頑固者”という意味? 如何なものか
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