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「おひさま」第4週 [物語]

今週の御題は「母の秘密」。陽子(井上真央)の祖母・子爵令夫人(渡辺美佐子)から、若かりし
母・紘子(原田知世)の事が明らかにされた。その一連の話の中には、* 母が先生になりたかった
が果たせなかった事、* 父・良一(寺脇康文)と恋に落ち家を出て行った事、* 茂樹(永山絢斗)
を祖父母の養子にとられ様とした時に、幼かった春樹兄(田中圭)が、決死の覚悟でそれを阻止
した事、などが語られた。それに、茂樹がいよいよ将来の進路を父親に打ち明ける話、そして、
真知子(マイコ)と春樹の恋が進展する話なども加わった。これらの話は、それぞれの関係者に
とって、運命の岐路ともいうべき「人生の節目」の物語であった。母の秘密に関する話題は、
これから生きていく上での指針となるべきものだったが、茂樹や真知子・春樹の問題は、
陽子が現場に立ち会っており、どう行動すべきか?の決断を迫られた。

従って私の考えた今週の影のテーマは、「運命と人生の節目」。我々視聴者は、今週の物語を、
影のテーマの視点から、どのように解釈すべきなのか?私なりに考えてみた。

第24回(土)、陽子が飴屋で育子(満島ひかり)に、春樹と真知子の互いの思いを何とか
してやりたいと話すシーンがあった。真知子が、春樹からの「ハイネ詩集」を陽子経由で受取り
一刻も早く読みたいからと先に帰った後のことである。
真知子は勿論の事、春樹も初恋ではないか?その二人の純粋な思いを何とかしてやりたいと気
を揉む陽子に、育子は「どんなに良かれと思っても、勝手に人の運命を変えるようなことをしては
いけない」といった。その言葉の背景には育子の将来の進路について、父親との衝突があった。
育子もまた運命の岐路に立つ人だった。それはさておき、私は、この育子の考え方を基礎にして
運命と人生の節目にかかわる人間の生き方について考えてみたいと思う。

一般論として育子の意見は正論だと思う。例えば陽子の祖母も、紘子が家出することを分って
いながら止めなかったのは、育子の考え方と同意見だったからだろう。しかし、そうであるなら
茂樹の養子縁組に待ったをかけた春樹の行為は間違っていたのか?という疑問が残る。また
育子の父親が、子どもを心配して東京に出るのを反対するのは間違いだといえるのか?という
問題もある。さらに、紘子が先生になりたかったのを反対した祖父は正しかったのか?
間違っていたのか?結果論ではなく、現在進行形の問題として、我、如何に対処すべきか?

「良かれと思っても、勝手に人の運命を変える事をしてはいけない」という言葉は非常に重要な
意味を持っていると思う。「良かれと思っても」本当に良いかどうか等、簡単には分らないのが
人生というものである。現代の政治家は、自分の勝手な憶測で、カネを配ることが良いことだと
思っているが、そういう行為が人間の精神に悪い影響、しかも決定的な悪影響を及ぼすという
想像力がない。見えないものを信じない典型的な例である。


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閑話・古今和歌集 [閑話]

今日は、書くこともないので、古今和歌集を紐解いて感じた事などを書きとめよう。
◎ 仮名序の最初には、やまとうた(和歌;漢詩などと対比)の本質を述べている。
 生きていれば、様々な出来事があり、また過ごし方、やり方があるので、心に浮かぶ
 事柄を、見たり聞いたりするにつけて、言い出したので、和歌も多くなったのである。
 従って、和歌は、人の心を種として葉が茂るように、和歌が生れたのである。
 鶯や蛙の鳴き声を聞くと、人のみならず、ずべての生き物が歌を読むことがわかる。

<感想> 前半の部分は、和歌に独特のものとは言い難いのではなかろうか?最後の行の
ほととぎすやかわずのうた(鳴き声)を、和歌と同じ目線で扱うところに、和歌を読む人の
心に関する日本人(平安時代前期)の独特の感覚があり、それを誇りにしていたと思われる。
人間と、生物を同一視しているのではないことは明らかである。現代ではその頃の先進文明と
考えられている中華思想に対して、当時(平安時代前期)は全面的に肯定していたのではない
ことが明らかだ。上記の文章だけでは自分達の誇りについて、論理的に十分、解き明かされて
いないが、現代の我々にも暗黙の内に了解できるところに、日本独特のものがあったのだ。

◎ 仮名序の次の段では、和歌の効用が書かれている。
 (和歌)は、力を入れないでも天地を動かし、目に見えぬ鬼や神を感動させる。
 また男女の関係を取持つことも、勇敢な武士の心も和ませる事も、できるのである。

<感想> 目に見えぬものを意識している点に注目したい。「ゲゲゲの女房」「てっぱん」の
ブログでも再三、取上げたが、目に見えないもの(未知のリアリティ)を想像する事は
決して迷信ではないのである。ゲゲゲの茂は戦争で死ぬ思いをし、片腕を失った経験による
トラウマを克服し、人間的に大きく成長したのである。ゲゲゲの女房も目に見えないもの
(茂の戦争体験)を想像して、過酷な生活環境に耐えて夫と共に大きく成長したのである。

もう一つ、男女の関係を豊かにするという効果。これは漢詩の本来のあり方とは異なる。
漢詩にも、艶っぽい詩はあるらしいが、漢詩本来の姿ではないだろう。それに比べて和歌は
例えば古今集では、恋歌は20巻中の5巻を占める。同一テーマで巻を重ねるのは、春歌、秋歌
雑歌が、それぞれ二巻に分かれているのみ。恋歌が主流というべきである。ここにも漢詩との
明らかな違いを読み解くことが出来る。
古代の日本の特徴は、庶民だけでなく、支配階層でも、優れた論理性や合理性を備えながら
豊かな自然に学び、未知のリアリティを想像する素晴らしい智慧があった。如何なものか
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精神的外傷後成長(PTG) [希望]

何気なく月刊「文芸春秋」5月特別号を手にとって、最初の記事を見たらPTGという見慣れない
略語が目に付いた。精神的外傷後成長(Posttraumatic Growth)の事らしい。
トラウマ(精神的外傷)は障害(PTSD)となる場合があるが、一方において人格形成に積極的
働きをして人間的に大きく成長させるPTGという働きもあるという。最近、注目されているらしい。
当該の雑誌記事では、著者の立花隆が、子どもの頃の戦争体験や、阪神淡路大震災の時に
小学生だった人々の体験談と共に、今回の大震災体験とPTGを関連付けて記述していた。
立花隆は、東日本大震災体験者をPTG第二世代と位置づけて日本の再生に期待していた。

あるブログ(http://blog.zaq.ne.jp/nagamasa/article/144/)に、
小児がん経験者のPTGに関する厚生労働省の研究班で実施したアンケート調査が載っていた。
要点だけを抜書きすると、(詳細については、ブログのURLを参照)
「自分の命の大切さを痛感した」、「他者に対してより思いやりの心が強くなった」
「人との関係に更なる努力をするようになった」、「新たな関心事をもつようになった」
「一日一日を、より大切にできるようになった」、「人と比べないことが大事と気づいた」
「メンタル面では粘り強くなり、成長したなって思える時もあった」

私が、何を主張したいのか、を示したい。
まず私は、PTGと直接被災者とを、立花隆のように安易に結び付けようとは思わない。
今の段階では、PTSDにならない様に気配りすることが先決だと思う。私が注目したいのは、
今回の大震災報道による間接的トラウマである。今回の大震災報道は、発生時刻の関係もあり、
たくさんの自然の理不尽な猛威を鮮明な画像で映し出した。尚且つ、その映像を、繰返し繰返し
流し続けた。そのために直接被災者とその肉親以外の多くの日本人がトラウマを負ったのでは?
ということである。恐らく、テレビ等で災害報道を放送する番組関係者等は特に、トラウマを受けた
のではなかろうか?だから、あそこまで執拗に放送し続けたとしか思われない。従来の日本人の
常識を超えたものだった。

お陰で日本にはたくさんのトラウマ体験者が生れた。これらのトラウマ体験者はPTSDまで進展
する可能性は少ないが、それだけ、多くの日本人が、PTGの可能性を秘めているということでは
なかろうか?報道その他によって精神的外傷を受けた人々にPTGという考え方を普及する事に
よって、これからの日本は変われるのではないか。そういう可能性を考えて、様々な企画を考案
する事が、今後の日本の質的発展につながるのではなかろうか? 如何なものか
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日本の根本的問題点 [社会]

散歩も終盤頃から強風と雷を伴って降り出したが、約10分で帰宅してセーフ!
その後、本降りになり、当地ではあまり無い様な大降りで、3~4時間後やっと静かになった。
今日は、午後雨の予想だったので、何時もは午後の散歩を午前中にして、大正解だった!

散歩途中の本屋で、月刊誌「Will」6月号を購入して最初の“HEADLINE”の2つの記事を
読んだ。日下公人「繁栄のヒント」、九段靖之介「原子力安全・保安院を仕分けせよ」。
そこに私が日頃、日本の根本的問題点と考えられていることが、見事に浮彫されていた。

「繁栄のヒント」では、現代日本の時代背景がホモ・エコノミストとなるにお誂え向きの
環境であるために、震災復興を全て「カネ」で解決しようとするだろうと予想している。

九段靖之介の記事では、原発事故対応について根本的問題を何ら認識していない民主党政権の
愚かな実態が明らかにされている。政府として原発事故対策に総力を挙げて取組むべき時に
保安院のみを使い、原発をチェックする独立の機関(原子力安全委員会)等の意見を取り入れ
なかった。この状況を、例えは良くないが、‘大相撲の八百長調査委員会に問題の親方を参加
させたようなもの’と評している。危急存亡の時にこそ、平和な時には互いに反目し合う相手でも
互いの智慧を出し合う、いわゆる「文殊の智慧」効果を発揮すべき時ではないのか?

碌な智慧もないのに、指揮官風を吹かせるしか脳のない統合対策本部長・菅首相、副本部長・
海江田経産相は本来、自分にしかできない本部組織の基本的な考え方すら出せないのである。
日本は、高度成長の爛熟期には、「カネ」が全ての世の中になり、組織的にも「たこ壷化」
の傾向が強くなり、内部チェック機構が働かず、「皆で渡れば怖くない」の暴走集団と化す。

同誌の阿比留瑠比“菅首相の存在こそ「不安材料」だ”でも同様の問題が指摘されている。
「復興構想会議」なるものが、五百旗頭(いおきべ)防衛大学校長を議長に発足したが、
「政治主導」に拘る菅首相は、人選や位置づけの検討にも官僚を入れず話を進めたらしい。
「拉致被害者を救う会」副会長の島田洋一教授(福井県立大)によれば、五百旗頭氏は、
ある会合で、「拉致なんて小さな問題」と、多数の強制連行と対比して、語ったという。
「心の問題」を、カネで測れるような大局観で割り切る考え方ではないか?民主党政権は
すべて「カネ」や「合理性」だけで割り切ろうとしているからオールジャパンと言いながら
偏った組織構築しか出来ないのではなかろうか? 岡田幹事長は、「危機的状況で首相を
代えるなどありえない」と言うが、危機はますます拡大している? 如何なものか
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「おひさま」四方山話 [思い出]

1つ目の話題は、主人・村上貞夫(斉木しげる)、お将・村上カヨ(渡辺えり)が経営する「村上堂」
の水飴屋。今日も陽子(井上真央)の祖母(渡辺美佐子)と白紙同盟三人組が話する場となった。
水飴とその味覚の記憶は今も鮮明に残っているのだが、具体的な入手方法や賞味場所等の記憶
が定かでない。昭和20年代に、紙芝居の見料として購入するものという記憶だけが鮮明にある。
恐らく、私の幼少時には、瓶詰めなどで広く流通していたのではないか?と思う。三人組が
水飴屋で、瓶に箸を差し入れて巻いて賞味した様に自宅で箸に巻いた飴をこね回して食べた
記憶がある。もしかすると、知人宅でご馳走になった記憶も混じっているかも?この水飴も、
昭和20年代からキャラメルなどに席を譲ったのではなかろうか?
Hudson Terraplane Custom.jpg
もう1つの話題はクラシックカー(写真はHudson Terraplane
Custom)。「おひさま」の第18・19回に出てきたクラシックカーと
同型?ではないかと思われる写真をネットから拝借してきた。その
根拠は、茂樹(永山絢斗)が口走った「ハドソン社のカスタメイド」。
ハドソン社は1909年に設立。最初から販売しているハドソン車に加えて、1919年にはエセックス
(Essex、廉価版)を登場させた。1932年にエセックスに代えてテラプレーン(Terraplane)という
ブランドネームを開始した。ドラマにおける時代設定は1938年(1922年生れの陽子が16歳の
女学生だから)。従ってドラマの自動車はテラプレーンのカスタムメイド(特注品:オプション付?)
ではないかと推察したわけである。

終戦後、私(昭和20年代・小学生)の同級生に戦後成金の息子がいて、この種のクラシックカーに
乗せてもらった事がある。親父さんの運転で神戸の街をぐるりと回った。ほとんど車など通って
いなかった。木目パネル、革張りのシートで、乗心地はフワフワした感じで落着かなかったことを
覚えている。今思えば、道路事情も悪いために、サスペンジョンが柔らかだったからだと思う。
当時、自動車の写真集のようなものがあって、私より35歳年上の父が大事そうに所持していた。
私などが勝手に触るといけないような雰囲気があって、こっそりと眺めて、美しさ感動した記憶が
ある。当時、自動車は夢のまた夢であった。その私が、約20年経った20歳代後半(昭和40年代
前半<1960年代後半>)には、中古車とはいえ自動車を所有する身になった。

こうして、「おひさま」の当時から現代までを通観してみると、1930年代後半から1950年代前半
までの10~15年は戦争のために停滞していたが、その後、余りにも急激な膨張をしてきたという
ことが伺える。今や水飴などという下賎なものを口にせず、高級車を乗り回す子爵令夫人と同様
の方々が、雲や霞のごとくに増加した。お目出度い限りでは無いか? 如何なものか
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「レベル7」のその後 [社会]

福島第1原発事故で、経産省原子力安全・保安院は12日、INES(国際原子力事象評価尺度)
の暫定評価を最悪の「レベル7」に引上げた件は、2011-04-17のブログで述べた。
この件の反応で、msn産経ニュース(2011.4.20)がまとめた主なものを取上げた。
1.「レベル7とのことでゾッとした。こうなったのも菅直人首相の責任ではないか。
  『菅首相よ、辞めろ』と大きく書いてくれ」
2.「事故発生から1カ月以上たったこの時期に発表するのはおかしい。センスのなさ露呈」。
3.「原発事故は人災である。政府はあまりにも甘く見すぎていた。事故発生直後に世界中の
  知恵と経験を福島に結集させるべきだった。菅首相はメディアを通じて東電の責任を強調
  東電を批判しているが、信用できない。保身ばかりはかる菅首相をいち早く取り換えて、
  決断力のある首相のもとで日本の復興を進めてほしい」
毎日jp(2011.4.25)は、
福島第1原発事故では37万~63万テラベクレルとチェルノブイリ原発事故の約1割(政府発表)
で、経済産業省原子力安全・保安院は「大半は原子炉内に閉じ込められている」としている。
しかし内閣府原子力安全委員会によると、事故から約1カ月後の4/5時点で1日当たり
154テラベクレルが放出されている。今も本来の冷却システムが復旧されず、余震による影響や
水素爆発が懸念され、新たな大量放出も起こりかねない。と報道している。

以上の様な報道を踏まえて、各種の情報から私の見解をまとめておきたい。
1.政府の発表は、2011.3.18に「レベル5」を発表。その後、28日を経て一気に「レベル7」
  これは不自然。「日本人はウソをいわないが、部分しか語らない」の実例であろう。
  2011.03.25に、朝日新聞が、放出された放射能の推定量から「レベル6」を発表した。
2.チェルノブイリ原発事故の約1割という政府発表も?マークが付く。
  1986年のチェルノブイリ原発事故「レベル7」の実際の放出量は約180万テラベクレル。
  推定量だから、各種の数値がある?だろうが、約1割と言い切れるのか?
3.福島第1原発電2号機の取水口付近から高濃度放射性汚染水が海に漏洩した件で、
  流出量の推定量=4700テラ(テラは1兆)ベクレルと推定した。また東電によると、
  原子炉には4月11日時点で9200万テラベクレルの放射性物質が残っているという。
4.毎日jp(2011.4.25)の報道では、154テラベクレル/日で、放射能は垂れ流し?

セシウム換算 1兆ベクレル=1.3万シーベルト。人体影響として毎日200万シーベルトに
相当する放射能が、福島原発から放出されているのである。数百ミリシーベルトで有害?
既に放出された、37万~63万テラベクレルは、48億1千万~81億9千万シーベルトに相当。
薄まって、人体に影響が出ないようになるのか? 如何なものか。
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「おひさま」第3週 [物語]

最初に今週、気になった風俗、服装、当時の流行など時代考証の話を述べたい。
まず、食卓における作法のこと。陽子(井上真央)が父・良一(寺脇康文)に話すときには
必ず箸を置いて話相手の方に体の向きをかえ、威儀を正す(顔だけ向けるのではない)。
次兄・茂樹(永山絢斗)が、口にものを入れたまま話したり、箸で指したりなどの無作法を
陽子は、いちいち注意していた。昔は食事の作法にうるさかった。食事を満足にとれる事が
貴重なことであり、従って食事の作法は、乏しい食物を最大限に摂取するための工夫として
決められたものだったと思う。食物が豊かになり食べ残しが日常化し、最大限の摂取という
食事作法は、当初の目的を失い形骸化して今日に至っている。しかし今、考え直してみるに
食事作法の目的は食物の最適摂取であると考えれば、今もなお大切なことだと思う。
昔は食料に不自由していたから、最適摂取=最大限摂取であったに過ぎない。

初の松本でのデートにおける服装。長兄・春樹(田中圭)は、学生服に高下駄。真知子(マイコ)は
着物に草履。他の三人は洋風で統一していたのと、対照的だった。5人が喫茶店で将来のことを
話しあった場面で、新しい事に挑戦する育子(満島ひかり)と運命に逆らわずに生きるだろうという
真知子の話があった。それに対して、春樹が、両方共、正しいといい、自分は真知子、川原(金子
ノブアキ)は育子に分類した。そして陽子が「私はどっち?」との問に「どちらでもない」と応えて
幼い時のエピソードを語った。
それにしても旧制高校のバンカラ(ボロの学生服(=弊衣)破れた学帽(=破帽)・高下駄)の風習
は、現代には生き残っていないのではないか?現代の破れジーンズは舶来(ハイカラ)品であり
いわば物まね・猿真似の一種だ。バンカラ(蛮カラ)は、貧乏で自然に弊衣・破帽になることを
恥じることなくハイカラ(ハイ・カラー:高い襟=舶来品を有り難がる金持)の物質崇拝を軽蔑し、
日本精神の素晴らしさを示した風俗だった。ハイカラーは,嫌な英語教師オクトパス(近藤芳正)
が着ていそうなシャツである。

松本高等学校訪問時に白紙同盟3人組が、押したり引いたりしている様子を、春樹と川原が高み
の見物で、キートン/チャップリンの無声映画になぞらえていた。またデートの帰り道陽子が
♪あなたと呼べばあなたと答える・・・と、「二人は若い」という流行歌を口ずさみ、幼馴染のタケオ
(柄本時生)との掛け合いになったのは傑作だった。無声映画も「二人は若い」も当時の流行?

今週の御題は「初恋」。しかし、深層のテーマは、「母のいない娘」ではなかったか?
春樹からの葉書の歓びも、制服の寝押しの苦労も、川原に手を握ってもらった嬉しさも、
友情の証の腹痛も、父や兄たちには言えなかった。




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6つ目のKとは? [社会]

日本を危うくする「4K」とは、「子ども手当」、「高速道路無料化」、「戸別所得補償」
そして「高校授業料無償化」というのが、東日本大震災以降の相場らしい。
いよいよ日本を危うくする「5つめのK」とは、何か?
桜井充財務副大臣が19日付のメールマガジンで言い訳男・菅首相を公然と批判した。
昨日、読売新聞や「朝ズバッ!」で「首相 足元からも不満」などと大きく取上げられた。
鳩山元首相に続き、「菅よお前もか!」と、今更ながらビックリしている人たちがいるのだ。
非常事態に日本を危うくする「5つめのK」は、言い訳男・菅首相というわけである。

首相の首を挿げ替える?首を替えただけで修復可能なのか? まだまだ治まらない?
菅首相が立ち往生しているのも、他に代わりが居ないからではないか?
大連立などという声が上がるのも、結局、「皆で渡れば怖くない」方式?
戦前も似たような景色があったのである。 昭和13年(1938):国家総動員法
昭和15年(1940):大政翼賛会発足、 昭和16年(1941):米英に宣戦布告

暗いニュースの多い昨今、NHK「あさイチ」等で話題になっていた希望あるニュースがあった。
「6つ目のK」は“結婚したい女性の増加”。東日本大震災や原発事故による不安から頼れる人が
欲しいという。“結婚したい女性の増加”には、多様な要因があるだろうが、その中で、最も重要と
思われる要因を取上げて、「6つ目のK」が、希望あるニュースの理由を述べてみたい。

最も重要な要因とは、自己の内奥に眠っていた「真実の自分=災害にあった人々を、利害を
超えて思いやり、助け合いたいという“真実の愛” 」、に目覚めた、ということである。
結婚しなかった女性の相当数は、日本の歴史上、最も安全で豊かな現代が、将来も永続的に
継続するのだと想定していた。そういう想定で、物質・精神の両面でどちらが、より安定的か?
或いは刺激的か?という視点から結婚と独身を比較検討して、独身を選択していた。
しかし東日本大震災や原発事故は、そういう人々の想定外の出来事であった。

想定外の出来事に会って、物質・精神の両面で安定的か?或いは刺激的か?だけでは、自分は
生きているといえるのか?と自問自答したのだと推定する。そして利害を超えた人間の絆として
夫婦関係を捉える様になったのだろう。想定外の災害を目の前にして、人間は謙虚になり、
人間として本当に大切なものに目覚めて、今まで面倒に思っていた人間関係を克服してでも
自己の真の人生を考えるようになった事は喜ばしい。それにしても、民主党や菅首相には
謙虚さなきフェイク自力本願?社会の真実にも、真実の自分にも目覚めない? 如何なものか
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法然展と親鸞展 [希望]

月曜日から所用で関西方面に出かけていた。ついでに、法然展と親鸞展に行ってきた。
法然展は、法然上人八百回忌・特別展覧会「法然 生涯と美術」・京都国立博物館。
親鸞展は、親鸞聖人七百五十回忌・親鸞展「生涯とゆかりの名宝」・京都市美術館。

法然は、1133年岡山美作の国に生まれ、13歳で比叡山に登り、15歳で出家受戒した。
43歳(1175)で、浄土宗を開く。凡夫にとって救われる唯一の仏道は、口称念仏である事を
 善導大師の「観経疏」によって確信した。
54歳(1186)に、天台宗の学僧・顕真法印の主催で「法然の念仏の教えは正しい仏教か?」を
 テーマとして総計300人に及ぶ大討論会が行われ、凡夫のために相応しい教えと認められた。
 これによって、顕真法印も、法然の浄土教に深く帰依したと伝えられている。
69歳(1201)、親鸞、比叡山の常行三昧堂を出て、法然の門に入る。
80歳(1212)、1月25日 入寂
法然に関する美術で最も印象に残ったのは、「法然上人絵伝」であった。

親鸞は、1173年に京都の南(現在の京都市伏見区)、公家・日野氏の家に生れた。
9歳(1181)、比叡山の慈円の僧坊で出家。29歳(1201)比叡山を下り、法然の門に入る。
52歳(1224)、「教行信証」の草稿本完成?
90歳(1262)、11月28日 入滅
親鸞展では、美術よりも経典の写経と注釈著作など努力の跡に関する膨大な資料が目立った。
また、“一流相承系図”や“親鸞上人門弟ら交名”と呼ばれる、法統を継ぐ系図も珍しかった。

合理的知識の伝承はマニュアルや教材などによって行う事が出来るが、
人間の感性に訴える智慧の伝承には、人間性が非常に大切なのであろうか?
曼荼羅やそれに類する絵は、ある種のイメージトレーニングに使われるのであるが
誰が誰の師匠であったのか?といった人脈を知識として系統立てる事が、何らかの
イメージトレーニングに役立ち、インスピレーションを発するのだろうか?

法然、親鸞という日本宗教界・最も有名な師弟の二つの展覧会を二日連続で観覧し
様々な直感が働き、積年の努力が報われ、疑問が解けた歓びで感謝の気持に溢れている。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」 如何なものか
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今朝のサンデー・フロントライン [社会]

用事で出かける前に「サンデー・フロントライン」が、4/12に福島第一原発事故評価を「レベル7」に
変更した事を取上げていた。最近余り見ないTV番組だが、録画して帰宅後に見てみた。
海外の日本語を喋るジャーナリストの、セルゲイ・コツバ(露・ノーボスチ通信)、カリン・プペ
(仏・AFP通信)、グレゴリー・クラーク(豪・経済国際問題コメンテータ)をゲストとしていた。

論点は、簡単にまとめると
1)福島第一原発事故評価を、チェルノブイリ原発事故と同じレベル7に引き上げた影響。
2)福島第一原発事故に対する日本政府の評価や、情報提供における問題。
3)東日本大震災から見えてきた日本人像について  などであった。

ゲストの発言よりも、途中に挿入された韓国や米国のマスコミ関係者の意見が厳しかった。
特に、韓国からは高濃度放射能汚染水を無断で放水した件に関して、厳しい指摘があった。
カリン・プペ氏は、「日本人はウソをいわないが、部分しか語らない」と指摘した。これは
とり様によっては非常に厳しい指摘である。この指摘を取上げて日頃の考えを述べたい。

「部分しか語らなくてもウソを言わなければ良い」と考える事が、“ズル(不正)”で
ある事は、誰でも知っている。それは「災害時に略奪をする」のと同様である。ただズルの
不正は、法律で裁けるかどうか? 道徳の問題、心の問題の領域かも知れない。ただ問題は
カリン・プペ氏のいう“日本人”は、一般、或いは犯罪常習犯を指しているのではない。
政府や、会社の公式見解を発表する人間を指しているのである。

人間には動物本能から発する様々な欲望の心「本能心」、人間の思惟による「理性心」がある。
日本人が、災害時にパニックにならず、略奪・暴動も起こらない、と海外から尊敬されるのは
そういう状況では、一般日本人は「理性心」で「本能心」を押さえ込むだけの自我がある。
しかし、明確に法律に書かれていない領域になると、何故?“ズル(不正)”する?
それは、自我が弱いために、状況に流され「理性心」が「本能心」によって支配されるから。
カリン・プペ氏の発言を分析した結果、一般庶民・犯罪者ではなく政府高官や高度知識階級も
自我が弱く状況に流され、「理性心」が「本能心」に支配されるという大問題が発覚した。

大勢の人間の中には、自我が弱く、「本能心」を制御できない人間がいるのは仕方ない。
しかし社会的責任の大きい立場の人間まで“ズル(不正)”するのではどうにもならぬ?
私には現政府の災害対応の大部分が“ズル” “ズル”に思えるのだが、如何なものか
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