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warp散歩・余話 [閑話]

丁度一月ほど前、二日連続「warp散歩の1日」と題するブログを書いた。その時に‘warp’と
銘打ったのは、様々な出会いがあり、異次元の世界にwarpしたごとく感じたからである。
そうした自在に飛躍する意識は私の中で美しい七色の噴水のように躍動した。そんな出会いの
中でも特に大きな躍動を伴った出会いに、上原井領(かんばらいりょう)用水に関する富原の
庄屋・小原七郎左衛門の義挙があった。その出会いを形にする為に更なる調査をしたが、何せ
古い話(延宝3年(1675)の大洪水が直接の原因らしい)だから結局、よくわからない。

そこで比較的確実そうな出来事だけを此処に列記し、それらを土台として私の思いを語りたい。
1.上原井領(かんばらいりょう)用水は、吉備郡吉備町の東部などの耕地を灌漑する。
2.この用水の取水口の領主と主要灌漑地の領主が戦国時代末期から、分離されてしまった。
3.当時の灌漑地を管理していた毛利家の郡代・隠岐守と言う人が用水の成り立ちや慣行を
  究明し利害曲直を正して、取水口の領主・宇喜多家と折衝し用水取入の権利を確定した。
4.徳川時代になって、取水口は池田家、灌漑地は伊東家の領分となる。
5.洪水の度に取水口が壊れて修復するなどの問題があった。寛永15年(1638)、伊東家は
  万難を排して樋管及び水門を新設したが問題となり、公儀決済を仰ぎ従来通り取水可能に。
6.それ以降も、池田藩は、上原井領の水利権を無視する事がしばしばあったという。
7.延宝3年(1675)の大洪水で取水口が破壊され復旧を池田藩に申入れたが、年を越しても
  許可なし。灌漑地の庄屋や百姓惣代が取水口の庄屋・小原七郎左衛門に直談判に及ぶ。
8.七郎左衛門は「取水口が池田領であっても、水利権を失う道理はない」と、許可を待たず
  工事を決行した。後に知った池田藩は延宝5年(1677)3月20日、七郎左衛門を処刑した。

七郎左衛門を処刑した当時の池田藩主・綱政は、「池田家履歴略記」によると、70人の子を
持ったと言う。記録に残る側室は8人のみだが実際には20人以上いた?延宝3年(1675)当時
池田家は京都御所造営を行っている。公家趣味の綱政は、この縁で下級公家の娘何人かを
側室にしている。綱政の父・光政は儒教主義で徳政を敷いた事になっているが、息子に‘寛容’の
教えは届かなかった?綱政は、領民に厳しくしても、気儘勝手な自分に恥じない暗愚な領主?

さてそういう時代背景にあって、他領の領民のために命を懸けた七郎左衛門の「志」を、どう
読み解き、どう活かしたら良いのだろうか?私は、七郎左衛門は、池田領主を信じていたと、
解釈したい。七郎左衛門は自分の用水路に関する判断に間違いはなく、領主も分ってくれると
思ったと、考えたいのである。七郎左衛門にとり不運であったのは、相手が綱政という暗愚な
領主であったことだ。七郎左衛門の「志」は正しく生きるリスクテイクの教えであると思う。
命を粗末に考えた決断ではなく、領主を信じ、支配者である武士を信じたかったのだ。
容易に「義」を行えるのなら、敢えて「義」と言わない。「義」にはリスクがつきものだ。


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