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続「てっぱん」20週・居場所 [物語]

無縁社会というテレビ番組で「自分の居場所」がないと感じる若者の話を聞いて、「てっぱん」と
いう物語も、「居場所を見失った人」の苦労話と見る事もできるのではないか?と思った。
そもそも、この物語の主人公・あかり(瀧本美織)の生みの親・田中千春(木南晴夏)も、「居場所を
見失った人」ともみえる。親元から離れ、当時、トランペットの指導を受けていた先生・橘(小市
慢太郎)の所に転がり込んだが、橘がボストンに留学すると聞き、そこを出て行った。
橘は、「千春はその時、自分の道を探していたのではないか?」と初音(富司純子)に説明した。

あかりもまた、高校3年生の夏に出生の秘密を知り、自己のルーツの大阪と尾道との接点を模索
する旅に出た。あかりも、「居場所を見失った人」にみえる。のぞみ(京野ことみ)も、結婚する予定
だった男の心変わりに見切りをつけて、同棲したところを飛び出し、あかりの親切心に助けられて
田中荘の住人となる。のぞみもまた、「居場所を見失った人」にみえる。

てっぱん・第114回(金)だったと思うが、尾道の村上家で、隆円(尾美としのり)、篠宮久太(柳沢
慎吾)と、錠(遠藤憲一)、真知子(安田成美)夫婦の間で交わした会話が心に残った。男たちが
「のぞみの赤ちゃんの父親は無責任」という発言に、真知子は「女は生もうと決めたら子供のこと
しかみえとらんのよ。中途半端な手助けなんか当てにしとらんわ!子どもが元気で生まれてきて
くれれば、もうそれでええんよ。」と言っていた。それを受けて、久太は、「生れた後は、男は
お払い箱ということじゃ」、隆円は、「女は強し、母はもっと強しじゃな」と言っていた。
昔は、「女は弱し、されど母は強し」と言ったものであった。

私はそこで考えた。母なる女性は本来、自分の居場所が適切な居場所ではなかったか?
その様に発想を180度転換すると、人間は現在の居場所が適切な居場所であり、自律的或いは
他律的に、変わる居場所も、それを肯定的に、前向きに考えることが大切なのだと気付いた。
「人の心は泥棒にも盗めない!」というあかりの言葉は、居場所にも当てはまる。

居場所がないという発想は、心がない、身体がないという発想と同じではないか?
「人の心は泥棒にも盗めない!」ならば、自分の居場所だって誰かに盗られたのではない。
千春もあかりも、そしてのぞみも、居場所を見失ったのではなかった?自分の居場所がないという
被害者意識、後ろ向きの発想ではなく、自分らしい生き方探しをしている(いた)のでは?
そういう妥協を許さない厳しい生き方の果てに無縁社会に行き着いてしまうこともあるだろう。
千春もあかりも、そしてのぞみも、そういう強い女の生き方を物語っているのか?考えてみれば
ベッチャー初音こそ強い女の生き方そのものであった。如何なものか。
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