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「くれない族」の高齢化 [大家族]

曽野綾子女史の近著「老いの才覚」に、「くれない族」という言葉が出てくる。「誰々が~してくれない。」という否定形、或いは「今度、××に連れてってくれない?」、「ついでに買って来てくれない?」という疑問形で使う人々を指すらしい。「老いの才覚」において女史は、最近の老人は、「~してくれない」(以下、「くれない言葉」)をよく使うので、そういう人を「くれない族」と密かに呼んでいると書いている。また女史は、「くれない言葉」を老化度の目安にしている。そして「くれない言葉」を使い出したときが老化の始まりだと書いている。

処が「くれない族」は女史の専売ではなかった。調べてみると、1984年に「くれない族の反乱」というドラマがあった。「くれない族」は、その年の流行語大賞の銀賞までもらっている。ドラマの主人公の主婦(大原麗子)が、「くれない族」から自立しようと頑張る物語らしい。即ち1984年当時では、36歳の主婦が使っていて、あまり不自然ではなくなっていた。そして現在(2010年)では、65歳以上の老人において、やはり頻繁に使う人々が目立つ事が綾子女史の近著から分かった。

さて「くれない言葉」は、本来、子ども言葉(甘え表現)だという。「くれない言葉」は、本来、一人前になると使われなくなる‘言葉’だった。それで、面白い事に気付いたのである。「くれない言葉」が、成人という大きな境を越境してしまったという事実である。1984年当時には、「くれない言葉」はバブル期の特殊現象に過ぎないと高をくくっていた。しかしそうではなくて、1984年当時の「くれない族」は、絶滅種ではなくて、人間の完成期に近づいている老年期まで、生き延びているという事が明確になってきた。残念ながら綾子女史の‘「くれない言葉」は、老化現象’ではなく、‘「くれない言葉」は、幼稚化現象’ということなのだ。確かに老化は、幼児化だと昔から言われているから女史の見解も妥当性はある?

私がここで喚起したい事は成人というバリア(人によって時期は異なる?)が、無くなる社会は、本当に人間社会なのか?という問題である。成人とは何か?人間とは如何に生きるべきか?それを問い続けなければならない。しかし暫定的にでも毅然として子どもに教え、子どもも家庭や社会から学ぶしかない。「法は悪法でも法」という。完璧な法等ないが、法のない社会は真ともな社会ではない。「くれない言葉」が高齢化している現象は、社会のもっとも芯となるべき裕福な家庭が内部から崩壊していることを示しているのではないだろうか?日本社会の問題は、財政の問題ではないという論拠はここにある。いくら金をつぎ込んでも、「くれない言葉」を子どもと一緒に使っている親や老人のいる家庭では、真ともな成人は生成されないのではなかろうか?如何なものか。
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