SSブログ

式のかたちと中身 [閑話]

'10年5月号「文芸春秋」の東海林さだお(漫画家)の「オリンピックの入場式はこのままで良いのか」
は、国母選手の服装を肯定する観点が、大変面白かった。以下に掻い摘んで要点を記す。
◎ 昔のオリンピック、例えば東京オリンピック等では、各国の入場行進の足並みはビシッと揃っていた。
◎ 最近では、ダラダラ、ゾロゾロ、言ってみれば日曜日の歩行者天国、夜祭のそぞろ歩き。
◎ 入場行進のやり方が、歴史的に少しずつ変わってきた。今や、昔の入場行進だったら変だ。
◎ グローバル化と共に、国家観もますます多様になっていくに違いない。
◎ 制服はますます似合わなくなり、制服は無くなって行くだろう。
◎ 現時点で国母選手の服装もあれで良かったのではないか?問題は入場式をどうするか?

さて、さだお氏の意見に対して、私の意見を自己の記憶のためにまとめておきたいと思う。
さだお氏の意見の大半は、私も大賛成である。北朝鮮の金総書記にご覧に入れるマスゲーム
の様に、一糸乱れぬ行進をするのは、どう考えてもおかしいと思うのは、みんな同じでは?
だが、日曜日の歩行者天国、夜祭のそぞろ歩き的な入場行進をどうするか?と開き直るほど
この問題を深刻には考えないのは、その根底に「式」についての私の考え方がある。
(此処では「式」の宗教的側面に関する考察は省略する)
“式”というと、日本人は、すぐに「有職故実」、「礼儀作法」を連想しがちである。
“式”とは、あまり良く知らない様々な人々も含め不特定多数の人々との交流、交歓の場であり
従って、参加・参列者達の暗黙の了解によって様々な形式が生れると、私は思っている。だから
結婚式など、世界各国、地域で様々な形式で行われるし、歴史的にも変化している。ただ
式を乱してはいけない。暗黙の了解は不文律だから、“式を乱すか否か”の判断は難しい。

一糸乱れぬ行進の入場式が廃れ、現在のような歩行者天国、夜祭のそぞろ歩き的な入場行進へ
と変化した理由は何なのだろう。私の考えでは、集団の個性表現が、表面的な形から集団内部の
個人の個性表現を含めた内外両面から集団を表現するという方向を求めたからだと思うのだ。
別の言い方をすれば行進者は観客に見せる演技者だけではなく自分も普通人になる事である。
集団の中で一人一人の個性は、集団の一部として大きく捉えられ、各集団の個性が示される。
国母選手の場合は、入場式でもない場所でとやかく言われたが、入場式でも良かったのでは?

何事も、外面だけではなく、内面も含めてコミュニケーションすることこそ大切である。
服装だけで中身を即断してしまう様な人間観は、決して世界では通用しない。如何なものか。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。