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ゲゲゲと文化資本 [物語]

今日は本当に暖かい。散歩に良い時節になった。ただ散歩するだけで幸福感が湧いてくる。
散歩しながらNHKTV小説「ゲゲゲの女房」12話を思い出していた。布美枝(松下奈緒)に来た
縁談を進めるに当たって先方の仲人さんの訪問があり、相手の村井茂(向井理)の紹介やら、
仲人と布美枝との対面が行われた。布美枝が仲人に挨拶するに当たり、父・源兵衛(大杉漣)が
たった襖を開けて挨拶するだけの事に、やたら細かく布美枝に指示するのを訝しく思った。
ドラマの進行と共に、その理由は分かったのだが、昔の人は皆、そんな気を使ったのだろうか?

女性の背が高い事に引け目を感じていたのは戦前の事であって、布美枝が見合いしたという
昭和35年(1960)頃に、そんなに気を使ったろうか?昭和35年代前半は私の姉や姉の友人が
結婚適齢期?で、私も中学・高校生だったが、様々な噂話を小耳に挟んでいたので何となく
違和感がある。地域によって差があるのかも知れないし、家庭による違いもある様に思う。

私が思うには、そういう家風の中で育ったところに、布美枝の人格形成があったのだと思う。
個性的文化資本≒家風ではないが、従来、個性的文化資本は人格形成に大きな割合を占た
と思う。最近では個性的文化資本の存在を評価せず、普遍的文化資本のみを追い求めるように
なった?普遍的文化資本の内容とはどんなものか?私にはよく分からないが、恐らく上流階級の
文化を真似たものではないかと思う。マナーは上品・優雅で、気持は鷹揚、度量がある。細かな
事にはコセコセしない、といったようなものではなかろうか?

何故、個性的文化資本が評価されないのか?それは個性的文化資本を見失った人々が、余裕が
出来て周りを見回した時、客観的に文化資本を見比べて普遍的文化資本という幻想を作りだした
からではないか?戦後も少し落着いた昭和30年代、よろめきドラマが流行した頃に、“ザーマス言葉”
や“有閑マダム”という言葉が全国的に流行したが、元は東京・山の手、その元は上流階級が源?
この流行の頃から人々は個性的文化資本を見失い、普遍的文化資本という幻想を生み出した?

布美枝の父・源兵衛を、大杉漣は凄く頑張って演じていると思う。源兵衛を明治生れの古い型の
一般的な父親像としてみるのではなく、個性的文化資本を体現している一人の人間として見る時
このドラマにズンと奥行きが出てくる。源兵衛が布美枝に「・・・わしはあの男に会って見たい」
「どんな人間でも失敗する時がある。そげな時にしぶとく立ち上がるのは、あげな男ぞ・・」と
熱弁を振るう。文化資本から湧き出る自信がなければ言える言葉ではない。如何なものか。
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独学への挑戦 [物語]

人真似でなく、自分自身で工夫した人生を獲得する為には、人生を“独学”で学ぶ必要がある。
“人生の独学”が廃れたか?実践している人も大勢いる。だが、そういう実践者が見え難い。
それは、世の中に流通する情報が、金目当ての情報ばかりであるためだ。その傾向は、既に
世界的な広がりを見せており、それがますます実践者を見え難くしているのかも知れない。

人々に“人生の独学”の大切さを知らせる情報は、お金にならない?金で何でも苦労なく入手
可能な現代人にとって、“独学”などというしち面倒くさいことに金を使わないと思うから。
“人生の独学への挑戦”(以後、“独学への挑戦”)は、本来、金儲け的な情報からではなく
“文化資本”の影響を受けるところから始まるのである。

現代日本は多様化されているといいながら、それは表面的なことが多く、現実的な価値観は
拝金主義に収斂し、ますます画一化している。現代日本において“独学への挑戦”による
多様な“個性的文化資本”の蓄積が如何に重要かは、一昨日のブログで強調した。

従来の日本では、様々な“文化資本”があるが、“個性的文化資本”は家族制度を基盤として
いた。ところが第二次世界大戦で敗戦した日本では、経済復興ばかりを優先し、民主主義、
自由主義下の新しい社会制度の構築を怠ったために、全体主義的縦社会構造が崩れた。
支えを失った家族制度そのものが風化し、 “個性的文化資本”の多くが危機に瀕している。

戦後の日本の洋化が、元々脆弱な“個性的文化資本”を持つ庶民を直撃したにも係わらず、
その事の重要性に気付かず、戦前と同様に画一的な価値観を刷り込み、金太郎飴教育を
継続してきたのは、主張内容は違え左右両陣営とも同じだった。そのドン詰まり内閣として
超保守・保守・左翼合同の現鳩山政権がある。従ってその政策も、金を餌にして、民衆を
“金で幸福が買える”かのような画一的価値観を押し付けさらに日本の状況を悪くしている。
現在の日本の教育を批判する人々も一方は官僚を、もう一方は日教組を悪者にして自分達は
正しいとするのみで、そのビジョンもない。多くの人々が“個性的文化資本”の重要性を
見失った流民の様である。“個性的文化資本”のある側から見ると、流民は腹をすかせた
憐れなハイエナの群れに見える。大切な事は、これ以上、日本の“個性的文化資本”が衰退
しないようにする事である。そのための “自分との戦い”に挑み、“個性的文化資本”を
独学で形成していく。心ある人はそういう人の育成を心で、情報で助けよう!如何なものか。
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ゲゲゲ・9からの連想 [社会]

今日のNHKTV小説「ゲゲゲの女房」では、布美枝の祖母・登志(野際陽子)がこの世を去る。
看病する登志の枕元で、父・源兵衛(大杉漣)が大福帳片手に、布美枝に話す場面が心に残る。
その大福帳(祖母がつけていた初期のもの)には、子どもの字のような拙い文字が並んでいた。
今は達筆な祖母を知る布美枝に、父・源兵衛はそのわけを話して聞かせるのである。早く伴侶を
失った登志が、独学して女の細腕で店を切盛りするまでに至るには大変な苦労があったろう。

明治時代には、一部を除いて‘女に学問は要らぬ’と言う時代だった。そういう時代に育った
登志が、子育てをしながら、独学で立派に経理もこなせるようになり立派な呉服店の経営者と
なったという話に、私は、大いに感激し、様々な連想が閃いたのである。一部書き留めたい。
「独学」とは、先生なしに学ぶ事である。先生は与えられるのが普通の現代人には分からないが
私は、この‘独学の精神’こそ、現代日本に一番欠けている心構えだと痛感している。
それらの問題点を、現在の政治状況における具体的な事例を踏まえながら述べてみたい。

民主党政治の問題点は今まで様々な観点から述べてきたが、‘独学の精神’という視点からは
その精神に最も遠い政治だという事ができるだろう。マニフェストに掲げた政策のほとんどが
主に西欧諸国からのパクリである事からも明らかである。そしてその精神もパクリである事は
鳩山首相の友愛政治、或いは施政方針演説での故ガンジー氏の「社会的七つの大罪」等でも
ハッキリしている。精神を真似るならチャンと真似て欲しい。内容の伴って居ないマネはパクリ!

民主党だけで止まっていればまだ良いが、今や自民党その他の政党まで西欧のマニフェスト選挙
にかぶれ出した。民衆が飛びつきそうな政策を掲げ、或いは票集めに野合を図るとは情けない!
昨日も英国下院議院の総選挙で二大政党とも過半数割れとなり、二大政党政治の終焉も話題に
なっていた。昨年の5,6月頃、英議員の経費不正使用事件で30人以上が辞任・引退となり、また
下院議長も3世紀ぶりに任期途中の辞任に追い込まれた。欧米近代化の‘人権尊重等の精神’は
学ぶべきだが二大政党政治等の形ではない。行く行く不正議員の大量生産は勘弁して欲しい。

日本は今、持続的発展の道か?それともいつか来た破滅の道か?の岐路に立っている。この時
パクリ等していて、新しい道が切り開かれるはずがない。パクリは破滅の道へつながっている?
「独学」の力を発揮して、日本の新しい政治を創造しなければ新しい道を切り開けないだろう。
様々な先例を学びながらも、独学で新境地を開く事が、これからの日本に大切?如何なものか。

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ゲゲゲ・8からの連想 [物語]

今日も好天に恵まれ、遠目の桜が美しかったが、散歩の帰りに真下に近づいた所、既に花びらが
積もっていた。花見気分になれる日数なんて、ホンの僅かの間であることを改めて思った。
今朝も「ゲゲゲの女房」を見て、古い思い出が甦ってきた。懐かしいので書いておきたい。
その前に今日の出来事で心に留まった事がある。布美枝(松下奈緒)はのっぽのために見合い前
の書類選考で不合格となった。傑作なのは父親・源兵衛(大杉漣)が布美枝の背中を自分の女房
と間違えて“破談の理由など布美枝に言ってはならない事”を一生懸命に注意するところである。
私ならそんなバカな間違いはしないと思うが、源兵衛は布美枝が不憫で堪らず動揺しているから
間違ってしまう。その一途さ、一生懸命さが私は好きだ。人間、様々なことを考慮しても、結局
自らの意思で決断するしかない。其処に間違いや粗忽もあるが、それが人生の味付け?

布美枝が見合いのため一旦断った洋裁学校の手伝い。見合いがダメになったので、再び採用を
先生に願い出たが、生憎、既に代わりが決まったという。その帰り道、幼友達チヨ(平岩紙)に
「元気を出して!また猫背になっとーよ」と言われるシーンがある。それで思い出した事がある。
昔は確かに大女は肩身が狭かった?ブログ「2010.04.03ゲゲゲの女房」でも書いた‘ななちゃん’
も小学生時代は若干猫背だったと思う。友達と優しく接していると、相手が小さいから自然にそう
なってしまうのではなかろうか? ご主人がのっぽの自分より随分大きい人でも猫背気味なるよう
だから、猫背は小さい人への優しさの現われなのではないか?ちなみにチヨは小さい。

それに関連してもう一人、背の高い女性のことを思い出した。母の友人で‘ヤスダのオバチャン’と
呼んでいた。私の物心付かない頃からの知合いで、幼少の頃はなついていたが、大きくなって
何となく敬遠するようになった?新潟生まれの美人だったが、お国訛りの上に何だかいつも怒った
ようなきつい喋り方をしていた。敬遠は彼女の喋り方に原因があった?

‘ヤスダのオバチャン’の喋り方からTV推理ドラマ 「農家の嫁は弁護士!神谷純子のふるさと事件簿」
へと連想が飛躍し、幼少時と大きくなってからの彼女のイメージギャップが埋まった様に思う。
ヒロイン・神谷純子(浅野ゆう子)の小姑(旦那の姉)・神谷明美(高畑淳子)の喋り方が‘ヤスダの
オバチャン’そっくりな事に気付いたのだ。北国の人は寒さに勝つ喋り方として、少し怒ったような
喋り方が普通なのではないかと考えた。ドラマは特徴的な喋り方を筋書きに活かしてはいるが、
決して不自然でないと思うからである。生れた時からの知合いでオバチャンの優しさ、温もりは私が
一番よく知っている。生意気な当時に抱いた偏見が今払拭され晴れ晴れした。如何なものか。
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孫の中学入学式&ゲゲゲの本 [大家族]

今日はNatsuの中学入学式である。関東では天気が崩れると言っていたが無事済んだろうか?
母親と祖母が参列した?兎も角目出度いことである。いよいよ二人の中学生の孫をもつ身に
なった。速いものだ。こういう行事ごとがあると年をとったことに気付く。何とも情けないが
今更どうにもならない。 ◎ めでた目出度の 孫の入学 年はとっても 気にしない
こちらも天気予報は曇だったが、段々晴れだし、昨日にも増して暖かく春らしい陽気だった。

今日から「ゲゲゲの女房」は第2週になり、ヒロイン・布美枝は松下奈緒に代わった。松下奈緒
についてはほとんど印象に残っていない。(何せ年齢が40ウン歳違うからね) 孫達は彼女と
10歳から17歳しか違わない。子どもとは13歳から17歳の違い。子どもと孫の世代の中間?
彼女のHPを見て今まで出演したTVドラマのリストを見たが、その中で見た記憶があるドラマは
「本日も晴れ。異状なし」だけだった。その時はヒロインの‘女先生’役だったと思う。
写真だけ見ると、チョッときつそうな性格に見えるが、役柄に溶け込むタイプなのか?
今朝のNHK「朝イチ」で彼女が作曲したという「ありがとう さようなら~父の背中」の話が
あって、嫁に行くという時の父(大杉蓮)との印象的な場面が流れていた。彼女の話では
そういった場面のことも思い出しながら作曲したという。だとすれば、「ゲゲゲの女房」も
結構古風な(何しろ布美枝のモデルの武良布枝は私より9歳年上)女性を演じてくれるかも?

いろいろと興味が募って、武良布枝著「ゲゲゲの女房」(実業の日本社)を買って来た。
まだ数頁しか読んでいないが、素晴らしいアイデアが浮かんだ。
この春中に「山陰にいこう!」である。決して“参院”ではない。

武良布枝の育った大塚は‘小宇宙’だという。安来から6kmと言うから丁度散歩コースになる。
安来から見る大山は本家富士山にソックリで地元では「出雲富士」と呼ばれているそうな。
宍道湖の東にある汽水湖の中海の港町である安来は、交通の要衝として栄えた。戦国の勇、
尼子氏の居城・月山富田城が築かれた山陰の中心地だったという。安来から境港は指呼の間
水上輸送の盛んだった昔は頻繁な交通がなされ、そういった伝統が、「ゲゲゲの女房」になる
機縁となったのだと、ご本人も書いている。一昨年夏に日御崎・松江・出雲・美保が関と北側を
巡った(ブログ「2008.8.31~9.2‘島根散歩’等」参照)が、大根島の牡丹園は時期外れ、安来の
足立美術館、境港は時間がなく素通りだった。欲張っても仕事の関係でまた行けない所が
出来るかもしれないが、牡丹の時期を外さないで行ってみたいものだ。如何なものか。
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「ゲゲゲの女房」第1週を惜しむ [物語]

昨日は晴れたとはいえ怪しげな雲もでて傘携帯散歩だったが今日はスッキリと晴れ上がった。
昨日まで当地の桜はまだだと思っていたが、今日はもう満開に近く、最高の見頃になった?
近場の散歩コースには、桜の木が多くないが、或る地域の公民館の狭い庭で、町内の人々が
花見の宴を催していた。中程度の桜の木が一本だけ。普段、人を余り見かけない場所だが
毎年やっているようだ。実に良い雰囲気で、心から楽しんでいる素晴らしい花見の宴だった。

我が家にも心に残る花見の宴があった。2008.4.10のブログに次のように記していた。
「子ども達が小さかった頃、花見の時期は、一年中で仕事が最も忙しくて休日も出勤するという
状態だった。だから土曜か日曜の夕闇迫る6時か7時頃に最も手近な足高神社の境内で夜桜
見物をしたものである。安直ではあったが、実に美しい花見だった。小さな桜木だったが、
満開の花が風も無いのにハラハラと散って行く。その木の下で子ども達が花びらをすくっては
パッと花吹雪にする。その時の光景は今でもありありと瞼に浮かぶから不思議である。
思い出の中の 花見の美しさは、珠玉の時間の光芒が花と共に愛しい人々を照らして、輝きを
増すためだと考える。花も人もうつろうとも、思い出の花見は決して色あせる事がない。」
最近、この時期は何かと気ぜわしく花見も少なくなった。それもまた個性的な生き方だろう。

前置きが長くなった。雑誌でNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が明日からヒロインが一足飛び
に、大人になってしまうと知り、佐藤未来のヒロイン・布美枝の熱演を惜しみたいと思った。
先週の幕切れが良かった。父親(大杉蓮)と次女・ユキエの仲違いを収めるために、布美枝が
ユキエのお見合い相手に縁談を断ったことが機縁となり、結局、横山という見合い相手の青年と
結婚する事になる。ユキエが花嫁となって家を出る時に父親が、「幾つになっても弱虫でいけんと
思うとったが、ここ一番と言う時には、がいな力が出る様になったなぁ!頼りにしちょーぞ布美枝」
というセリフが泣かせるではないか。大杉蓮扮する親父は怖いばかりではなく、
しっかりと人間を視ているのである。

布美枝は横山青年に、懸命に“破談”をお願いする。それは‘卵の一件’などで横山青年の人柄を
知っており、そこを見込んだからなのだ。そうする事が一番大切なことだと信じたからである。
計算高い見通しなど何の役にも立たない。その時に一番大切なことをする。そういう布美枝の
一途な本音の生き様を、布美枝の親父は、素晴らしい力とチャンと感じ取る事ができたのである。
この結末によって、佐藤未来の根暗風な演技が記憶の中で大きく輝きを放った。如何なものか。
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ゲゲゲの女房 [閑話]

妻が孫の面倒を見に上京して数日が経った。今朝、朝食の支度をしながら何の拍子か?唐突に
NHK連続テレビ小説の新シリーズ「ゲゲゲの女房」の10才当時のヒロイン・布美枝(佐藤未来)の
話(3/31放送)を思い出した。布美枝が近所の悪童に“煙突”、“電信柱”等とからかわれている
場面である。そして小学生のとき背が高かった幼馴染の‘ななちゃん’の事へ連想が飛んだ。

‘ななちゃん’はどういう訳か、幼い頃から知っている同級生だった。母親同士が友達だった?
私が病弱でよく学校を休んでいた小学校低学年の頃は、度々お見舞いに来てくれたりした。
親同士は親しかったかもしれないが、‘ななちゃん’は背が高くてどっしりしていて同い年とは
思えなかったし、どうも先輩のような貫禄があったというか?晩生の私には近寄りがたかった。

ヒロイン・布美枝と関連付けると、当時の‘ななちゃん’ものっぽであることを悪童達にからかわれ
ていた光景を思い出した。当時弱虫だった私が助けに入る等と言う事は考えもしなかったが、
記憶に残るその場面で、‘ななちゃん’は、布美枝のように縮こまらず、かといって強気でもなく
まるでお母さんのように、悪童達をかわしていた。‘ななちゃん’は布美枝の9歳年下である。
同じ10歳でも、戦後は戦前と違い女性の立場が公認されたという点は大きいのかもしれない。
「ゲゲゲの女房」でも、次女のユキエはハネッ返りだが、結局、お見合いして結婚した。
戦前の女性の生きる道は狭かったのだろう。子どもの生き方にそれが反映してもおかしくない。

‘ななちゃん’とは、小・中・高と同じ学校に通ったが特に親しくなる事もなく、お互い社会に
出て疎遠になっていたが、数年前の同窓会で再会した。幼い頃の面影はなく、最初は気付かなく
て彼女をがっかりさせたようだった。その時に語り合ったことも今はもう昔の話である。
‘ななちゃん’は、私にとって沢山の人生における出会いの中の一人に過ぎないかも知れない。
しかし今思うと、‘ななちゃん’は、私の脳裏の奥深くに住んで、私の事を助けてくれている。
「一期一会」は、その時、その時に如何に充実するか?であると同時に、その出会いの記憶が
長い年月を通して熟成し、発酵して人の血となり、肉となるということもあるのではないか?

NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が、今後どのような展開になるのか?よく知らない。が、
この物語は、当地の隣県‘島根’、‘鳥取’で生まれ育った人々が長い年月を通して熟成した
目には見えぬが何か素晴らしい贈物で、人々の心を豊かにしてくれるのでは?と期待している。
現代の政治も経済も発想がインスタント化、安直化? もっと熟成し、発酵しては如何?
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小鳩政権 [閑話]

今日、とある大衆食堂で一人外食して、楡周平の「衆愚の時代」(新潮新書)を読み終えた。
第1章・派遣切りは正しい 第2章・欲望を知らない子供達 第3章・夢という名の逃げ道
第4章・サラリーマンは気楽な稼業ではない 第五章・まだ株屋を信用しますか
第6章・非成長時代の身の処し方 第7章・老人専用テーマパークを作ろう 
第8章・弱者の視点が国をダメにする
私の意見と共通するところも多い。私より1周り以上若いが立派なものだ。日本も大丈夫?

楡周平は、「政治家というものは‘甘言を弄して’社会を弄ぶものではない」ということを
言いたかったのだろう。p184に、“アメリカのマスコミは鳩山さんの演説をこう一刀両断したそうな。
「エンプティ・プロミス」。つまり、空手形ですな。”と言うクダリがある。
普天間問題にしても、米国には空手形でも、沖縄の人には聞きやすい内容になっている。
「規制緩和」、「自助努力」、「自己責任」などという言葉は民衆から疎まれてしまった。
従って郵政問題でも、一般庶民は偏狭の地で困っている人を助けるためなら良いだろう程度の
認識で、郵政国有化がまかり通ってしまう。また官尊民卑の役人天国に逆戻りでもいいのか?
みんなの党・渡辺喜美の近著「民主党政治の正体」によると、自民党時代以上の官僚天国とか。

楡周平の苗字 “楡”から、「楡家の人々」という小説を思い出した。楡病院の初代医院長が
神聖冒すべからざる偶像となる物語だったと記憶する。小鳩政権では、この小説のごとく、
民主党政治を偶像崇拝化するシナリオを優先し、ひたすら選挙に勝つための工作をしている。
連立政権では、堅実な政策論議などをやっていないことが、徐々に明らかになってきている。
民衆は、高校授業料無料化、子ども手当支給などは、何といっても貰い得。
マスコミなどの識者も、現民主党の政治、小鳩政権の運営がおかしい事に薄々気付き始めている。
しかし従来の発言を打ち消すわけにも行かないし、民衆が喜んでいるのだから良いだろうとなる。
遠い将来のツケなどケセラセラと、渡辺淳一先生の鈍感力・楽天的性格でやり過ごすという訳だ。

問題は、小鳩さんたちが、本気で偶像崇拝化されることを望み、取り返しのつかない所まで
日本を変えてしまう事である。普天間問題をウルトラCで乗り切ったりするとその可能性もある。
「衆愚の時代」p43に、“社会はいつの時代にも自ら生き抜く意思を持たない人間には厳しい”
と書いてある。仮にウルトラCで民主党政治が続き、偶像崇拝的雰囲気の怪しげな時代でも
雰囲気に飲まれず、‘しっかり’と自分の生き方をしようではないか! 如何なものか。
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私の健康2010.3月 [閑話]

3月の私の健康管理状況をまとめておきたいと思う。概要としては当面設定の目標はクリアした。
今月も歯の調子が悪かった。年のセイか毎月を振り返ると何か問題があることが分かる。
健康法の実施結果は以下の通り。
1.万歩記録。合計・407千歩。1日平均・13100歩。1週間平均・91800歩。いずれも目標達成
2.筋トレ。実施日・19日で0.643と目標実施率の50%以上を達成した。
3.スロージョギング。実施日・22日で0.710と目標実施率50%以上を達成した。
  1日平均時間・33.2分 (1ヵ月間のスロージョギング実施時間/31日)
4.ゴルフ素振り、アプローチ、練習場等。15日実施で0.484。目標実施率30%以上を達成した。

最新の「週刊現代」に渡辺淳一の“幸せ上手”(講談社・税込み1100円)の解説記事があった。
この記事によると、“幸せ”は巷に溢れかえっている。それに気付かない人(幸せ下手)が多く
なった。健康であるなら、それだけで大変な幸せに包まれている。「ありがとう」という事も、
幸せを招くためには大切。非論理という人間の業を学ばねばならないという。ここら辺までは
私も大筋において賛成だ。ただチョッと首を傾げたくなる部分もチョクチョクでてくる。

以下、この記事の主張点で?のつくところを抜書きしながら、チョビッと反論してみようか。
◎ ナイーブでデリケートで考え込むタイプは、だいたい早く死ぬ。
◎ 日本の男性は悲観論者が多い。人生を明るく楽しもうという意識が低い。
 どうも、渡辺淳一先生は、鈍感力がお好きなだけあって、まことに大雑把。論理性がない。
確かに、外科医あるいは医者というのは、鈍感力がないと勤まらないのかも知れない。しかし
この世の中が、医者ばかりになったら世の中は回っていかない。様々な人が社会には必要だ。

渡辺淳一先生は、日本人が“幸せのレベル”を、とんでもなく高いところに置いているという。
私は、そうではなくて「画一的な幸せ」を求めるから競争率が高くなり手に入りにくいのだと思う。
日本人は束縛されることを嫌って、自由を追い求めてきたように見えるが、結果的には、
目に見えぬ何かに縛られて身動きできなくなっている。「個性的な幸せ」を求めているはずが
どうして画一的な流行を追ってしまうのか?もうそろそろ民衆もお目覚めの時ではなかろうか?
既得権者というのは、社会福祉の助けを借りなければならない人を除いて、政治家に依存して
金をもらっている人々のことをいう。いまや全国民が既得権者になりたがっている?悪徳政治家
と既得権者の全廃は無理でも、極小化のために頑張ろうではないか! 如何なものか。
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