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国際婦人デー100周年 [思い出]

今年で国際婦人デーが100周年を迎える。1904年(明治37年:日露戦争勃発)3月8日の
米国婦人参政権運動を記念して、1910年にデンマークで行なわれた国際社会主義者会議で
「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日としたことが始まりであることは
昨年の同日のブログでも書いた。1910年(明治43)には、個人的に特別の思いがある。
今年は亡き母の生誕100周年でもある。母は私が社会人になって間もない頃に亡くなったが
日本女性解放の歴史を、母の一生と重ね合わせて見るとき、それは机上の空論ではない
生々しい様相を呈してくる。母は、同世代の女性としては極一般的な人だと思うだけに
“日本女性解放の100周年”という言葉には、多彩で奥行きのある状況が見えるのだ。

女性解放の問題は、参政権や男女機会均等などの形に現われるものよりも、無形のものに
難しさがある。男女の区別ではなく男女差別は、我々の生活の中に深く根ざしているから
明確な意識もなく相手を傷つける。傷つけられた女性が強くて強力なコミュニケーション能力を駆使
できれば、現代では道を切り開いて行けるだけの様々な法的整備は日本でも出来ている?

昨日の「特上カバチ」というドラマを、ひょんなことから初めて見た。
今回のキモは、セクハラの定義。“セクハラは被害者の主観で決まる”ということだ。
新米の田村 (櫻井翔) は、安易な自分の解釈でセクハラの被害者に迷惑をかける。
この件は、田村の必死の努力で、何とか一件落着となるが、被害者は退社することに。
所長の大野勇(中村雅俊)は、依頼人の気持を汲めなかった田村に「人間失格」といった。

所長・大野の求めるような行政書士であれば、平凡な日本女性の解放を援助できる。
しかし、それは今でも理想論に近いのではなかろうか?
昨日の「特上カバチ」というドラマは、日本の風俗・習慣上、女性に不利な‘セクハラ’を
題材にして、平凡な日本女性の更なる解放の必要性を物語っているように思う。

男女共に、強くて能力があれば、多少の荒波にもくじけることなくまた再挑戦していける。
今回の「特上カバチ」のセクハラをはじめ、女性解放問題、いじめ、若年ホームレス等
様々な問題に不可欠なのは、大仰なパフォーマンスやスタンドプレーではなく、強者の側の優しさ、
共感ではないか? 金持ちが札びら切って自己の力を誇示し、またそれに追従して余禄に
預かろうとするさもしい強者の群れが、平凡な人々の不満を誘うのである。如何なものか。
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