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理想と現実 [社会]

連日快晴で暖かく、軽いスロージョギング(30分強)で散歩の代替として、後は素振りやアプローチの
練習をした。テレビでは最高気温15℃となっていたが、結構 汗を流した。スロージョギング前に
たまたまテレビ「徹子の部屋」に野村克也が出演しており、さすがに良いことを言っていた。
‘ぼやき’のことを、「結局は、理想と現実のギャップ」だという。面白い見方だと思う。

「理想と現実のギャップ」というと非常に硬い感じがあり、=‘ぼやき’とは思わない。
‘ぼやき’を辞書で引くと、「ぶつぶついうこと、ぼやかしていうこと」等となっている。
日本人特有の曖昧語の一種であろう。野村の‘ぼやき’が受けた理由はいろいろだろうが、
曖昧にぼやかしながら本質を突いた「理想と現実のギャップ」を明らかにした事もファンの
評価を獲得した一因だと思う。理想や現実をあまり生々しく分析してしまうと白けてしまう
だろう。当面の理想や良い面の現実でぼやかしながら、選手やチームの努力方向を上手に
表現すると、勝因や敗因の説明も納得しやすいものになるのだろう。

プロスポーツの様なエリート集団の世界では、高い理想を掲げて叱咤激励するのも良い。
しかしその様な世界ですら、野村元監督のような名将は、現実的アプローチを心掛けている。
政治の世界は、もっと現実主義で進めていかなければならない。
然るに、鳩山政権は、理想主義的な政治に傾いている。理想主義は美しい。
ロマンチックな物語が美しい涙を誘うのと同じである。日本人の過去には江戸時代という
閉鎖社会で、ある意味で理想主義的社会の実現を見た。鳩山政権の理想主義的な政治は、
日本人の過去の潜在意識を呼び起こし、新鮮に映っているのか?

2009.05.11のブログ「米国留学少女物語・3」で、夏目漱石の講演「文芸と道徳」を引用して
ロマン主義的道徳と自然主義的道徳について書いた事がある。漱石は“実現できる程度の理想を
抱いて、未来の隣人(外国)・同胞との調和を求め、弱点を寛容する同情心を持して、人に
対する融合剤とする心がけ”が大切だと説いている。この講演の期日はは明治44年(1911)
日露戦争の6年後の事である。理想主義には、寛容さ、‘ぼやかし’がない。「事業仕分け」に
しても、国民に対する予算の可視化という取って付けた様な理由をつけたが当初の「子供手当」
の財源確保という点から見れば完全な失敗である。‘予算の可視化’というと情報公開で、
民主的という事になる。しかしそれは自分達の理想を遂行する隠れ蓑である。次々と口から
でまかせキャッチコピーで民衆を誑(たぶら)かしているだけではないか?如何なものか。
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