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映画<道元禅師> [物語]

昨日、久しぶりにイオンに行ったが、たまたま映画『禅ZEN』というのが、ワンコインで
見られるというので今日の10:50からの切符を妻と二人分、買い求めた。今日の降雨率は、
午前60%/午後50%ということで出かけには少し降っていた雨も、途中で止み、帰宅時まで
何とかもってくれた。今日は、映画見物の往復を散歩に当てるという贅沢な散歩だった。

この映画は、道元禅師(正治2年(1200)-建長5年(1253))のお話ということである。
映画の内容は、駒澤大学総長・大谷哲夫先生の著書『永平の風―道元の生涯』が原作とのこと。
映画は道元の幼い頃に母親が荼毘に付されるところから始まる。そして病床の母親と幼い道元と
が、浄土や阿弥陀様に関する会話の回想、そして禅師が、貞応2年(1223)に宋(中国大陸)に
渡って修行する場面へと展開していく。

この映画で、私の印象に残った点は、道元が説いたという、「死んで仏に会ってどうする?
生きて仏に会わなければ何になる?」、「生きて自分の中にいる仏に会う方法が、只管打坐」
ということである。只管打坐=ただ座禅をする。悟りを開くためではないそうである。
私の聴き違いかもしれないが、座禅そのものが生きる糧、生きる力になるということだと思う。
私が身近に親しんでいる「安定打坐考抄」中村天風著、という本に、禅の本領・目的とは
“自覚を完全にして、真善美の完全生活をなさしめ、人間としての本分を完とうすること”
という説明がある。古い本なのでいささか理想主義的で、現代人には馴染みにくいだろう。
しかし何が真っ当か?が分らなくなっている現代では、只管打坐は、真っ当な人間として
生きる力・糧を「真っ当な人間を自らの中に見出す」ことによって得られるのではないか。

もう1つこの映画で感じた事は、道元が説く「執着を捨てる」ということである。
道元は執着を捨てたからこそ生きている間に、権力者や弟子からの尊敬も、信徒からの敬慕も
そして死後遠く時代を隔てた人々(中には良寛などもいる)からも慕われ尊敬され続ける。
いわば、道元禅師は、すべてのものを捨てることによってすべてのものを得たのである。
現代の様々な問題を解決していくために「執着を捨てる」という視点は大切だと思う。道元は
宋からの帰国後、その成果を自己に問い続け、“柔軟心”を得てきた、と結論付けたという。
坐禅→「執着を捨てる」→“柔軟心” →生きる力・糧、と私なりに読み解いた。さて日本よ
経済力等のソフトパワーだけで世界に立ち向かう精神的準備は十分か?如何なものか。      
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