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仕置きの見直し [社会]

今日は快晴、俳句の季語では、“秋の空”、“秋の天”、“秋高し”、“秋晴れ”、・・・・と
覚えるのが大変なくらい沢山あるのを見ると、古来、日本人の心を捉え続けてきたのだろう。
飽きることなく感動を繰り返してきた日本人の心の柔軟さに、心底、喜びを感じる。

そういった日本人の柔軟な感覚、思考、体質は、超グローバルな視点からいえば何の問題も
ないという事になるのかも知れない。しかし私は浪漫主義的な立場をとらない。
芸術や文芸と政治の領域では、直接的に人々に大きな影響(多くは被害)を及ぼす割合の桁
が異なる。従って実現不可能な理想主義に引きずられて、大きな時代の波を起こし、人々を
巻き込んだ第二次世界大戦のようなことにならないことを、私は、切に祈っている。

こんなことを書くと笑われるだろう。しかしながら当時、昭和2年(1927)の世界金融恐慌
から、226事件まで9年、第二次世界大戦開戦(1941)まで14年もあったのだ。
昭和の金融恐慌が起こった同じ年に、小説家・芥川龍之介(茶川ではない)は服毒自殺したが、
「或旧友へ送る手記」という遺書に、自殺の理由を、“将来に対する唯ぼんやりした不安”と
書いている。これをインテリの脆弱さと切り捨てるのは簡単だが、事はそう簡単ではない。
同書には、この“ぼんやりした不安”の理由は小説「阿呆の一生」で解剖したと書いている。
小説「阿呆の一生」の終章に、“彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘おうとした。しかしどう
云う闘いも肉体的に彼には不可能だった。「世紀末の悪鬼」は実際彼を苛んでいるのに違い
なかつた。”という一節がある。

「世紀末の悪鬼」とは何か?恐らく、多くの研究者による議論がなされているだろうが、全く
の素人である私の意見は、日清戦争の勝利と、三国干渉による遼東半島還付条約にかかわる
様々な問題を含んでいると考える。明治28年(1895)のこの出来事から、日露戦争、そして
昭和2年の世界大恐慌へと繋がってゆく。昭和2年の流行語は、「モガ」、「モボ」や
踊りの「チャールトン」、そして、「ぼんやりした不安」などだった。こうして振返ると
一般民衆は、芥川の苦悩を省みずに、大正ロマン時代の贅沢の幻影のみを追いかけていた?
日本人の柔軟な体質は、様々な変化に柔軟に対応していける。それだけに、方向転換の時に
余程、注意しないと、世論と、実現不可能な理想とが合体してトンでもない方向へ走る?
政治家も人の子、使い捨てばかりではなく、今回の仕置きを見直すべき?如何なものか。
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