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米国留学少女物語・6 [物語]

20世紀初頭、捨松は大山巌(天保13年(1842)-大正5年(1916))と結婚して約20年。
夫・巌は、近代兵器開発・製造の国産化を目的に明治4年から10年間のつもりでスイス留学。
国内政情不安のために実際は3年間。その後、西南戦争などを経て順調に昇進。
明治13年(1880)~明治24年(1891)大山巌は陸軍大臣。その翌年には、また復帰。
日清戦争では陸軍大将として活躍。明治32年(1899)勅命で陸軍参謀総長(巌58歳、捨松40)
捨松は様々な文明の衝突で苦しんだが、政府高官・巌の妻として日本の近代化に尽くした。

明治35年(1902)1月 日英同盟協約締結 ロシアとの関係悪化
明治37年(1904)2月~明治38年(1905)9月 日露戦争 明治37年・巌63歳
日露戦争において大山巌は勅命で陸軍元帥として満州軍総司令官に就任。日本の勝利に貢献。
大山捨松も、銃後の守りにおいて獅子奮迅の活躍をした。大山夫妻は明治時代の日本の発展に
大きく貢献した。その事は大いに評価されてしかるべきだと思う。拙速すぎたことによって
後に、大きな文明の衝突を起こしたことに幾許かの責任はあったとしても、人間というものが
不完全なものである以上仕方がない。大山巌は、軍人として政治への関与を極力避けた。

明治41年(1908)4月 巌・捨松夫妻の長男高は軍艦「松島」の事故によって艦長以下数百名
と共に海の藻屑となった。その中には捨松らと一緒に米国留学した繁子の長男武男も居た。
大正4年(1915)4月 巌・捨松夫妻の次男柏の結婚式、花嫁は近衛篤麿公爵長女・武子
 武子が大山柏との結婚を決意した時に、周囲から、小説「不如帰」を持ち出された。
 姑の嫁いびりの心配をされたというのである。後に大山家の人となった武子は、捨松の事を
 小説とは全く違った暖かい包容力のある人で、自分は本当に幸せものだ、といっている。

時あたかも大正浪漫時代、庶民が欧米的風物に親しみだした事もあると思うが、帰国後20年余
の年月が、捨松を西欧的なマナーと日本的な作法を兼ね備えた才媛に成熟させたのだと思う。
1917(大正6年)に書いたアリスベーコンへの手紙で、“近頃の若い娘達は欧米の教育の
良い所を学ばないまま、日本女性の最も良い所を失って残念に思う。”と書いている。
何時の時代にもある老人の繰言か?福沢諭吉の「文明論の概略」に、“国内の兵乱は治まったが
日本人の心の騒動は治まらず、今後ますます持続する勢い”と書いてある。福沢先生や捨松の
恐れは“心の騒動”を騒動とも思わず日本人の良い所を失っていく事だろう。如何なものか。

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