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米国留学少女物語・5 [物語]

前回の年譜はアリスベーコンの第一回目の日本滞在:明治21年6月~明治22年(1889)8月
までであったが、先走って「不如帰」の話まで入ってしまった。少し年譜の順序を追う。
明治26年(1893)4月 先妻の長女・信子(「不如帰」ヒロイン・浪子のモデル)三島家と結婚
 風邪をこじらせて起き上がれなくなった信子を、三島家では療養のために里帰りさせた。
 結核の疑いもあるとのことで里帰りは長引く。翌年になって、三島家から離縁話。
明治27年~28年 日清戦争 大山巌、信子の夫、共に戦争に行った。
明治28年(1895)9月 信子・正式離婚成立 その前、大山夫妻・信子は揃って関西方面に旅行。
明治29年(1896) 5月 信子は20歳の若さでこの世を去った。
明治31年暮~明治32年(1899)5月 徳富蘆花「不如帰」 国民新聞に連載

信子の悲劇は、やはり文明の衝突という側面があると思う。伝染予防のための捨松の行為が
多くの使用人や周囲の人々、そして信子自身にも冷たい仕打ちと写ったかも分らない。
そして昨日も書いたが、信子の離婚には、信子自身というよりも、捨松仕込みの合理思考が
災いした可能性がある。信子の結婚観も捨松の影響がうかがえる。当時の慣習からいえば
結婚3ヵ月で長期里帰りするとなれば、実家の方から一旦破談を申し入れる位の気配りが要る。
それを当然の事の様に長引かせたことが、家風に合わないと判断された気配がなくもない。
捨松の後半生を見るときに、「不如帰」によって、世間の冷たい視線を浴びたことが、彼女の
人生観を修正したというか、日本社会の習慣に自分を合わせて行ったように思われる。

明治33年(1900)4月 アリスベーコン、日本の女子高等教育向上のために再来日
明治33年(1900)9月 塾長・津田梅子の女子英学塾開設、捨松は顧問になった。
明治35年(1902)4月 アリスは塾が軌道に乗ったのを見届けて日本を去った。
明治36年(1903)4月 女子英学塾 新校舎において第一回卒業式 梅子・40歳、捨松・44歳

津田梅子の女子英学塾は、経済的に苦しい中で寄付に頼って新校舎建設に至ったという。
3年間で集まった寄付金総額、1万1千円の90%がアメリカからのものであったという。
ともあれ、明治4年に幼い少女達が米国に長期留学し、米国で育んだ人脈から多大な支援を
受けながらも、古い体質を乗り越えて、日本女性の高等教育を自力で進めた事は
文明の衝突を活かした大変な功績であり、日本人の誇りである。 如何なものか。

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