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米国留学少女物語 [物語]

徳富蘆花の「不如帰」から、ヒロイン・浪子の継母として描かれている人が、明治4年(1871)に
米国留学した少女5人の中の1人・山川捨松(後の大山元帥婦人:万延1年(1860)- 大正8年
(1919))であることを知った。少女達は日本の近代化の最前線に立って異文化に挑戦した。
5人の中には津田塾の創始者・津田梅子もいた。その割に捨松は、「不如帰」のような悪い噂は
流されても、あまり良い話は伝わっていない。なぜなのか?

明治維新のあの怒とうの混乱期、皆が一生懸命に生きた。奥床しい人々は手柄を人に譲る。
手柄を譲られ運が良かった人々が歴史に名を残したのだろう。世間の記憶容量の制約という
中で多くの人々が、“出る杭は打たれる”の例え通りに、さまざまな流言蜚語の餌食になり、
味噌も糞も一緒にされ、称揚されることもなく忘れ去られていったのだろう。

私は、山川捨松という人物の事跡や風聞を関連書物から発掘してみようと考えた。
文明の衝突という謎に迫るためである。捨松のような得がたい経験は、当事者だけに
とどめることなく、広く、一般からも掘り起こして、そこから何かを汲み取っていく必要がある。

捨松は幼名を咲子といった。捨松の所属していた会津藩は幕末に賊軍として敗れ、領地を
没収されて青森の方に移住させられて大変な辛酸を舐め、捨松は養女に出された。
米国留学に旅立つ際、母親・唐衣がお国のために立派に学問を修めて帰るようにとの思いで
「お前を捨てて待つ」という意味を込めて、改名した。
捨松は生れてから留学までの10年間に、すでに動乱と文明開化という化け物と戦っていた。

明治4年米国留学組・5人の内、14歳・最年長の二人は病気になり1年そこそこで帰国した。
7歳だった津田梅子と11歳だった捨松が、11年間、8歳の永井繁子が10年間の留学だった。
年少者の方が文化ショックに強い。そして、捨松は背水の陣であったともいえるだろう。
捨松が生れてから留学帰国までの22年間は変化の連続であり、歴史的、文化的、環境的に
混沌とした変化に絶えずさらされ、それに懸命に適応したのだろうと思われる。
如何なものか。


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