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100年の重み [物語]

「百年前の家庭生活」という本の中で、結婚・離婚という観点から取り上げられていた徳富蘆花の
「不如帰」を調べていたら興味深いことがわかった。1つは小説のモデルになった人々が当時の
著名人であったこと。2つ目は小説の内容は、モデルの実際とはだいぶ違っていたらしいことだ。

改めて全編を通読した。小説の内容そのものも世間に伝わっている程の嫁・姑、継母・継子関係
のいざこざという印象ではなかった。それ以上に小説の内容と、モデルに関する様々な情報とは
大きく食い違っていた。小説中の主なモデルは、
1.片岡中将のモデルとなった大山巌中将(後の元帥)
2.ヒロインの娘・浪子のモデルは大山巌の長女・信子(先妻の娘)
3.片岡中将夫人のモデルは、津田塾大学の創設者として有名な津田梅子等と共に明治4年から
  10年間、海外留学した元会津藩家老の娘・山川捨松(後に大山巌に懇請され後妻となる)
4.浪子の夫・武雄のモデルは、三島 通庸(みちつね:1835(天保6年)- 1888(明治21年))
  の子。三島 通庸は、現職総理大臣の祖先に当たる。

芝居などでは、浪子は実家では継母に、婚家では姑に苛められたことが誇張されていた様だが、
小説の記述内容は、今の感覚で言えばそれ程激しいものではなかった。
また実際のモデルになった人々に、そのような事はなかったという。姑が薩摩弁丸出しできつく
聞こえたのと、明治20年代の日本の生活様式とは異なる海外留学(12歳から10年間)をした
継母に関して、観察者が誤解をしたようだ。離婚も実際は大山家側が、申し出たと言う。

私が読んだある本によれば、「不如帰」の著者・徳富蘆花に、この小説のネタを話したのは、
徳富蘆花夫人の友人(女性)で、当時の伝統文化につかりきっていた人だったと思われる。
明治維新から徐々に世の中が落着いてきた明治20年代当時の女性風俗・文化が読み取れる。
当時の上流社会における、成り上がりや、異国文化に、偏見を持っていたことが良くわかる。
これは社会批判文学とも読み取れる。それに対し、大山夫人(信子の母)や三島夫人(信子の姑)
が、ジッと耐え忍んだのは、当時の伝統文化の奥床しさを偲ばせて余りある。
特に帰国子女の大山夫人は、帰国当初は日本語もうまくしゃべれなかったと言う。
それにもかかわらず、日本の生活に順応できたとは素晴らしい。如何なものか。
余談だが、大山巌元帥夫人・捨松は、大正8年(1919)2月18日にスペイン風邪によって死去。

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