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利と義と・2 [物語]

 朝晴れて 午後は時雨の 散歩かな
時雨は、降ってきたかな? と思えば止み、 やんだかなと思えばまた降り出す。
今日も午前中は晴れ渡っていたが、午後からは雲が出て、このところ毎日時雨(しぐれ)る。
芭蕉のしぐれを読んだ句は多い。 2句ばかり、拾ってみた。
○ 何処(いづく)しぐれ 傘を手にさげて 帰る僧  桃青 延宝8年(1680)37歳
 局部的に降る時雨の特性をサラリと押えた一句。
○ 宿かりて 名をなのらする 時雨かな  ばせを 元禄4年(1691)48歳
 時雨に会い旅の一夜を求め主の情けあるもてなしに慰められた。一会の記念にという頼みに
 応じて詠んだという意味の前書がある。
旅に生きた芭蕉がしぐれを熟知し楽しんだことは、 毎日散歩していると分かる様な気がする。

さて、昨日、直江兼続の人物評として引用した京都・妙心寺の南化玄興和尚の言葉
「人というものは利を見て義を聞こうとしないものだ。 そんな中で直江公は、利を捨て義をとった人だった」 の “人は利を見て義を聞こうとしない” という一節を再考したい。
ここで、“見る”は“識別する”、“聞く”は“承知する”、“納得する”と解釈する。
するとこの一節は、“人は利を識別するが、義を納得しようとしない”、となる。
「利」は、もうけ、勝ち目。「義」は、道理、意味。従ってこれらを総合すると、「人はもうけや勝ち目は識別して追い求める習性があるが、道理や意味等は納得できない」、となる。

普通の人間は、自己本位・自己中心的で、“利を捨て義をとる”などは出来ない。
では、謙信や兼続は本当に“利を捨て義をとった”のだろか?
兼続も謙信も共に優れた経世家、民政家だったようだ。
謙信は「義戦」に明け暮れたが、軍資金に困ることもなく、死後には莫大な金銀を残したらしい。
兼続も徳川の世になり、上杉家の所領を1/4に減らされた後も、内政の力を発揮し、
謙信時代からの多くの家臣を抱えながら安定した統治を行った。

謙信と兼続の偉さは、子孫を度外視したところにある。 謙信は元々、実子はなかった。
兼続も嫡男を若くして亡くし、養子もとらなかったという。 「義に生きる」というのは、自分の家系の繁栄などは、“天地人”に任せるところにあるのだろう。 如何なものか。

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