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ワークシェアリング [希望]

今日の新聞に、“ワークシェアリング”の話題が出ていた。
春闘の前哨戦 1/8の「労使フォーラム」で議論されたようだ。
日本では不況になって雇用問題が持ち上がる度に、ワークシェアリングが出てくるが、どうも国の支援を期待しているようだ。しかし本来のワークシェアリングとはそんな問題ではない。
昨日、我々熟年世代の生甲斐や相互協力、扶助、交流という観点からワークシェアという言葉を使った。企業のワークシェアリングについても少し触れてみたい。

我々の世代に馴染み深いピーター・ドラッカー(1909-2005 経営学・社会学の先生)が生涯を通じて求め続けたのは、“企業(或いはその他の組織)の活動を通じて、人々が幸せになる”方法だった。そのための手段としての企業経営の目標は企業が良くなる事であり、企業を最適な状態に保つことであった。最適な組織状態を保つために従業員は如何に仕事を達成するか?
そのために人々は相互にいかに協力、扶助、交流するのか。ワークシェアリングとは、企業のあり方の根源を問う問題である。その具体的な方法論として、経営管理などが必要になる。

日本は、江戸時代に見事なワークシェアリングのゼロサム社会建設に成功した実績を持っていたが、明治維新以来、国際化の波に翻弄されてきた。諸外国に負けまいと頑張ったのは良いが、
日本という国の特質を踏まえた最適な状態を見失ってしまった。その結果、企業も各々の最適化を忘れ膨張した。官民が無闇に膨張した結果が第二次世界大戦という大惨事を引き起こした。
戦後は復興のためにまた一生懸命働いて今日の繁栄をもたらした。しかしそれは健康な繁栄ではない。人間の体でいえば不健康な肥大・肥満に陥っている。

その原因は最適な国家や企業のあり方、究極的には最適な人としてのあり方を問うという大切なことを置き去りにしていることにある。現代の状況を肥大・肥満とも思わず、勤勉な国民性だといって臆面もない。政治家を始め、キャリア官僚や企業エリートが最適な国家や企業のあり方を考えていないからだ。目標もなく闇雲に働き続け利己的に金銭や世評、立身出世ばかりを求めて、我欲に耽り、良民を巻き添えにしてそれで良しとするのではどうしようもない。
一流の国家・国民には、正に「品位」がなければならない。如何なものか。

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