東京家族物語(4) [物語]
今日の散歩は、比較的日差しもあり、風が強かったが、それ程の寒さは感じられなかった。
今日は、『東京物語』と「東京家族」の周吉(橋爪功)の妻を中心に映画の感想を述べて見たい。
まず『東京物語』のとみ(東山千栄子)を最初に取上げたい。私から見れば、祖母に当るとみは、
『東京物語』を見た当時は、遠い存在の様に感じていた。だが、妻と同世代の「東京家族」のとみこ
(吉行和子)と並べて見た事によって、とみもまた、陰影を持った人物として浮かび上がってきた。
確か、映画制作当時〔昭和28年(1953)〕とみは68歳の役だった。という事は、明治18年
(1885)の生まれという事になる。68歳当時は尾道に住んでいた。常識的に言えば、生誕地も
その周辺と考えて良いだろう。明治18年といえば、明治憲法の発布が三年後、帝国議会最初の
召集が五年後、大津事件は6年後である。明治維新後、まだ世の中は騒然としていた?
最近の若い人は余り知らないと思うが、当時はまだ北前船の活躍も華やかな頃で、瀬戸内海の
港は海上運輸の基地として賑わっていた。即ち現代の様に鉄道や航空のネットワークが出来る
までは、都会集中型ではなく地域分散、地方中心の経済だった。従ってとみが生まれ育った頃は
尾道も、それなりに先進的な地域だったと思われる。またこの映画制作当時は、ようやく
朝鮮戦争の休戦が成立した年。日本の国際連合加盟は三年後だった。
そういうとみの生涯を眺めると、地域の栄枯盛衰や、日清・日露戦争、そして15年戦争等、
幾多の山谷を乗り越えた多難な人生だったといえる。久し振りの上京を喜び、その慶びを
胸に永久の眠りについたとみの鷹揚で上品な人柄が、懐かしく思い出される。
一方、「東京家族」のとみこは、2012年に68歳という事は、昭和19年(1944)生まれ。
生まれ育った環境は異なるとはいえ、私の妻と同世代である。そういう観点から考えた場合、
「東京家族」のとみこは、頑固な夫に従順に従い、保守的過ぎる様に思えた。子どもや孫が
東京に住み、特に次男・昌次(妻夫木聡)は気がかりな存在である。それなのに、自分一人で
上京して子や孫の様子を見る事は無かったのだろうか?私の妻など、年に何回も、1~2週間位
上京する。とみこの住まいは、瀬戸内の小島という設定だから交通の便が、我家の倉敷よりは
悪いかも知れないが、今回が何年ぶりの上京だったのだろうか?
私は、とみこ(吉行和子)の演技を見ていて、一昨年見た「Railways2」を思い出した
(2011-12-16のブログ『続・映画「Railways2」』を参照の事)。映画「Railways2」は、
滝島徹(三浦友和)・佐和子(余貴美子)夫婦の定年離婚の物語だ。そこで吉行和子は、
看護婦佐和子の患者・信子役(恐らくとみこより年老いた現代のお婆さん)を演じた。
定年離婚を決意した佐和子の頑なな心を解きほぐす大切な味わい深い役だった。
続きを読む
佐和子が、信子と今は亡き彼女の夫とが、長い年月に渡って添い遂げた理由を訊いた場面。
「或る時ね、きづいたがじゃ」、「“お”じゃなくて“ぺ”なんだって」 「夫だと思うからシャクに
さわるし、疲れる。ペットだと思えばいいがよ。」と信子は語った。 動物には細やかな気持は
伝え切れないし、一般的に我儘なものである。夫なんてわがままなペットだと思えば、
我慢も出来るという事?信子役は、勘所のキーワードをぴたりと押さえていた。
一方、「東京家族」のとみこは、次男・昌次の部屋に泊まり、間宮紀子(蒼井優)と会い、また自分
(とみこ)のお葬式に紀子が参列する事によって、父周吉(橋爪功)と昌次との関係を修復できた。
そういう意味では、とみこもまた大きな役割を果たした。しかしそれは、決して人為的なものでは
なかった。前回も書いた様に旅行計画がもう少し念入りなら、或いは周吉・とみこ夫婦が二泊三日
の予定を切り上げて帰宅しなければ、とみこが次男・昌次の部屋に泊まる事は無かった?
とみこは人為的ではなく、偶然の機会を生かし、そして自己の死という偶然の機会を提供して
家族関係を修復した、まさに中心人物だったのだ。
人生には、人為的にはどうしようもない事が起る。信子の夫や佐和子の夫、そしてとみこの夫も、
性格などを人為的に変える事は難しい。しかしまた人為的にはどうしようもない事が、人為的には
どうしようもない頑なな心や、縺れにもつれた人間関係を解きほぐし、解決してくれたり、
或いは、心の成長を促してくれたりするのである。
「東京家族」のとみこは、現代の同時代人としては気が効かない様に思える節もあるが、
そういう生き方もまた立派な生き方と言うべきではなかろうか? 如何なものか
今日は、『東京物語』と「東京家族」の周吉(橋爪功)の妻を中心に映画の感想を述べて見たい。
まず『東京物語』のとみ(東山千栄子)を最初に取上げたい。私から見れば、祖母に当るとみは、
『東京物語』を見た当時は、遠い存在の様に感じていた。だが、妻と同世代の「東京家族」のとみこ
(吉行和子)と並べて見た事によって、とみもまた、陰影を持った人物として浮かび上がってきた。
確か、映画制作当時〔昭和28年(1953)〕とみは68歳の役だった。という事は、明治18年
(1885)の生まれという事になる。68歳当時は尾道に住んでいた。常識的に言えば、生誕地も
その周辺と考えて良いだろう。明治18年といえば、明治憲法の発布が三年後、帝国議会最初の
召集が五年後、大津事件は6年後である。明治維新後、まだ世の中は騒然としていた?
最近の若い人は余り知らないと思うが、当時はまだ北前船の活躍も華やかな頃で、瀬戸内海の
港は海上運輸の基地として賑わっていた。即ち現代の様に鉄道や航空のネットワークが出来る
までは、都会集中型ではなく地域分散、地方中心の経済だった。従ってとみが生まれ育った頃は
尾道も、それなりに先進的な地域だったと思われる。またこの映画制作当時は、ようやく
朝鮮戦争の休戦が成立した年。日本の国際連合加盟は三年後だった。
そういうとみの生涯を眺めると、地域の栄枯盛衰や、日清・日露戦争、そして15年戦争等、
幾多の山谷を乗り越えた多難な人生だったといえる。久し振りの上京を喜び、その慶びを
胸に永久の眠りについたとみの鷹揚で上品な人柄が、懐かしく思い出される。
一方、「東京家族」のとみこは、2012年に68歳という事は、昭和19年(1944)生まれ。
生まれ育った環境は異なるとはいえ、私の妻と同世代である。そういう観点から考えた場合、
「東京家族」のとみこは、頑固な夫に従順に従い、保守的過ぎる様に思えた。子どもや孫が
東京に住み、特に次男・昌次(妻夫木聡)は気がかりな存在である。それなのに、自分一人で
上京して子や孫の様子を見る事は無かったのだろうか?私の妻など、年に何回も、1~2週間位
上京する。とみこの住まいは、瀬戸内の小島という設定だから交通の便が、我家の倉敷よりは
悪いかも知れないが、今回が何年ぶりの上京だったのだろうか?
私は、とみこ(吉行和子)の演技を見ていて、一昨年見た「Railways2」を思い出した
(2011-12-16のブログ『続・映画「Railways2」』を参照の事)。映画「Railways2」は、
滝島徹(三浦友和)・佐和子(余貴美子)夫婦の定年離婚の物語だ。そこで吉行和子は、
看護婦佐和子の患者・信子役(恐らくとみこより年老いた現代のお婆さん)を演じた。
定年離婚を決意した佐和子の頑なな心を解きほぐす大切な味わい深い役だった。
続きを読む
佐和子が、信子と今は亡き彼女の夫とが、長い年月に渡って添い遂げた理由を訊いた場面。
「或る時ね、きづいたがじゃ」、「“お”じゃなくて“ぺ”なんだって」 「夫だと思うからシャクに
さわるし、疲れる。ペットだと思えばいいがよ。」と信子は語った。 動物には細やかな気持は
伝え切れないし、一般的に我儘なものである。夫なんてわがままなペットだと思えば、
我慢も出来るという事?信子役は、勘所のキーワードをぴたりと押さえていた。
一方、「東京家族」のとみこは、次男・昌次の部屋に泊まり、間宮紀子(蒼井優)と会い、また自分
(とみこ)のお葬式に紀子が参列する事によって、父周吉(橋爪功)と昌次との関係を修復できた。
そういう意味では、とみこもまた大きな役割を果たした。しかしそれは、決して人為的なものでは
なかった。前回も書いた様に旅行計画がもう少し念入りなら、或いは周吉・とみこ夫婦が二泊三日
の予定を切り上げて帰宅しなければ、とみこが次男・昌次の部屋に泊まる事は無かった?
とみこは人為的ではなく、偶然の機会を生かし、そして自己の死という偶然の機会を提供して
家族関係を修復した、まさに中心人物だったのだ。
人生には、人為的にはどうしようもない事が起る。信子の夫や佐和子の夫、そしてとみこの夫も、
性格などを人為的に変える事は難しい。しかしまた人為的にはどうしようもない事が、人為的には
どうしようもない頑なな心や、縺れにもつれた人間関係を解きほぐし、解決してくれたり、
或いは、心の成長を促してくれたりするのである。
「東京家族」のとみこは、現代の同時代人としては気が効かない様に思える節もあるが、
そういう生き方もまた立派な生き方と言うべきではなかろうか? 如何なものか
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