青春と高齢化 [散歩]
私の健康のバロメータに関しては以前にも書いた事があるが、最近、そのバロメータの
警告が深刻化しているのである。此処1・2年前から警報が出ていたのであるが、段々と
回復しない傾向が強くなった。筋トレなども工夫しているのであるが、10月上旬頃から
坂道を歩く散歩を積極的に取入れた。近所の足高山(標高67m)を縦走するのである。
以前にも散歩で足高山に登っていたが、登りは万歩計の計数が少な目に出るので
いつの間にか、散歩の重点が平地中心になっていたが、健康管理には代えられぬ。
今日でもう、足高山登・東西縦走の片道(もう片道は平地)10月=8回、11月=8回
そして、東西縦走を往復 10月=1回、11月=5回 を記録した。
そういう体験の積み重ねかどうか?今日は素晴らしい体験をしたのである。
往路を登りながら、歩みが“サクサク”と実にリズミカルに感じられ、往年の
小学校から高校まで、通いなれた神戸の坂道を登っている時の気分が甦った。
あの青少年の頃の様に、淡々と、何の気負いも負担もなく、ただ“サクサク”と
ただ“サクサク”と、歩いている自分に気付いたのである。
復路でも、その気分を味わいながら、これは何なんだ?何が起っているんだ?と
考えて見た。そして次のような事を思った。
“私は70を過ぎ、ゴルフも下手になるばかりの下り坂の老人?見かけも、肉体も
老人というレッテルを貼られて当然なのかも知れないが、‘老人’という名目
(レッテル、形式)では測り知れない内容・中味がある事を主張したいのだ。
サミュエルウルマンの『青春』という詩で謳われているのは、若い肉体の事でも
年齢的な精神でもない。赤ちゃんの時から持っている瑞々しい感受性を保つ事、
そして名目(レッテル、形式)で簡単に物事を決め付けないことだと思うのだ。”
日本は、今や世界に冠たる高齢化社会だという事になっている。国民総生産がどうの
経済成長率がどうの、失業率がどうのと騒ぎ立てるが、それは単なる見掛けだけでは?
格差社会だ、伝統的な束縛だ、なんだかだと騒いでいる人々の心や精神は、見掛けの
名目(レッテル、形式)だけで出来ているのではないか?と疑いたくなる。
薄っぺらな名目(レッテル、形式)だけで物事を判断せず、thickな中味・内容を
瑞々しい感受性でもって、学習・理解して判断するべきではないのだろうか?
政治家・評論家はじめマスコミや識者が、最近の衆議院選挙の薄っぺらな(thinな)
政策論争等に惑わされたら、日本が、碌な事にならない事は明白。如何なものか
警告が深刻化しているのである。此処1・2年前から警報が出ていたのであるが、段々と
回復しない傾向が強くなった。筋トレなども工夫しているのであるが、10月上旬頃から
坂道を歩く散歩を積極的に取入れた。近所の足高山(標高67m)を縦走するのである。
以前にも散歩で足高山に登っていたが、登りは万歩計の計数が少な目に出るので
いつの間にか、散歩の重点が平地中心になっていたが、健康管理には代えられぬ。
今日でもう、足高山登・東西縦走の片道(もう片道は平地)10月=8回、11月=8回
そして、東西縦走を往復 10月=1回、11月=5回 を記録した。
そういう体験の積み重ねかどうか?今日は素晴らしい体験をしたのである。
往路を登りながら、歩みが“サクサク”と実にリズミカルに感じられ、往年の
小学校から高校まで、通いなれた神戸の坂道を登っている時の気分が甦った。
あの青少年の頃の様に、淡々と、何の気負いも負担もなく、ただ“サクサク”と
ただ“サクサク”と、歩いている自分に気付いたのである。
復路でも、その気分を味わいながら、これは何なんだ?何が起っているんだ?と
考えて見た。そして次のような事を思った。
“私は70を過ぎ、ゴルフも下手になるばかりの下り坂の老人?見かけも、肉体も
老人というレッテルを貼られて当然なのかも知れないが、‘老人’という名目
(レッテル、形式)では測り知れない内容・中味がある事を主張したいのだ。
サミュエルウルマンの『青春』という詩で謳われているのは、若い肉体の事でも
年齢的な精神でもない。赤ちゃんの時から持っている瑞々しい感受性を保つ事、
そして名目(レッテル、形式)で簡単に物事を決め付けないことだと思うのだ。”
日本は、今や世界に冠たる高齢化社会だという事になっている。国民総生産がどうの
経済成長率がどうの、失業率がどうのと騒ぎ立てるが、それは単なる見掛けだけでは?
格差社会だ、伝統的な束縛だ、なんだかだと騒いでいる人々の心や精神は、見掛けの
名目(レッテル、形式)だけで出来ているのではないか?と疑いたくなる。
薄っぺらな名目(レッテル、形式)だけで物事を判断せず、thickな中味・内容を
瑞々しい感受性でもって、学習・理解して判断するべきではないのだろうか?
政治家・評論家はじめマスコミや識者が、最近の衆議院選挙の薄っぺらな(thinな)
政策論争等に惑わされたら、日本が、碌な事にならない事は明白。如何なものか
新宿駅から東京駅に行く方法には、いろいろ考えられる。
JRの中央線を利用する方法や、地下鉄・丸ノ内線を使う方法など、多数が考えられる。
個人の好みもいろいろ違う。
だが、団体行動をとる場合には、どれか一つに決める必要がある。
方法を一つに決めるか、指導者を決めてその人の決めてもらうかである。
矛盾のある方法は、あらかじめ排除しておく必要がある。
多数決で、民主的に決めると良い。
どっち道、東京駅に行き着くのだと考えて、小異を捨てて、大同につくのである。
東京駅に行きたくない人は、この団体には加わるべきでない。
そうでないと、団体全体が混乱する。
政治の場合も同様である。
遠い未来の行き着く先の世界を個人個人に描いてもらう。
そして、その現実対応策を述べてもらう。
現実対応策にはいろいろあろうが、民主的な方法で決める。
民主的な意思決定に同志は道を譲らなくてはならない。
共通の夢を実現するという強い望みが譲りを与える原動力になる。
小異を捨てて、大同につくことにより未来社会の建設に協力が可能になる。
長年月をかけて目的に一歩一歩近づくことができる。政治哲学が生きてくる。
目的の達成には、金もかかる。固い団結はシニア層にも安心をもたらし、彼らの金にも使い道ができてくる。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
by noga (2012-11-30 20:04)