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京都歴史散歩2012/9 [歴史]

今日は秋分の日の一日前だが比較的涼しい散歩だった。「暑さ寒さも彼岸まで」
不順な天候など、異常が目立つこの頃であるが、何かホッとする言葉である。
先日(9/18)京都は彼岸の前に既に涼しかった。雨模様で大谷大博物館を訪問した。
「物語の世界」と冠して、12の物語、7つの軍記・歴史、9の説話等を展示していた。
その中で、心に残った事を書き記しておきたいと思う。
<その1>
「宝物集」(ほうぶつしゅう)平安末期の仏教説話集。何故この物語に目が止まったか?
著者・平康頼(やすより)が数奇な運命の人だからである。今年の大河ドラマの「清盛」
と同時代人である。ドラマは見ていないが、康頼は登場しないと思う。それは彼の伝説が
余りにも美しすぎるからである。

展示の書物・「宝物集」は、江戸時代(1635)出版。物語成立は、治承三年という。
説明書には、康頼が、“鹿ケ谷事件・治承元年(1177年)6月”の関係者として捕縛され
俊寛・藤原成経と共に、薩摩国鬼界ヶ島へ配流。首謀者・西光はその場で斬首。康頼は、
翌年成経らと中宮徳子平産のための大赦?で召還され帰京。その後、本説話集を編んだ
とされている。物語は、或僧侶が鬼界ヶ島(硫黄島)流刑の恩赦で帰京して、嵯峨野・
清涼寺釈迦堂における談義を傍聴する所から始まる。この僧侶は著者本人ではないか?
と思われる(説明書きから引用)。

西光は即時処刑、俊寛は特赦されないのは罪が重いからだろうが、1年で許すならば
硫黄島まで送らなくてもよさそうな気もするが?何か理由があったのだろうか?
“鹿ケ谷事件”は、近年の研究で、‘実は清盛の陰謀’という説もあるらしい。
西光は相当性質の悪い成り上がり者だった?後白河上皇は、ろくでなしの取巻き?
しかし平康頼は、立派な性根の持主だったという事になっている。以下は伝聞。

康頼が二十歳頃に、主人(尾張国の国司)の目代として尾張に派遣されたときの事。
尾張には平治の乱の敗走途中、重代の家来に湯殿で殺された源義朝(源頼朝の父)の墓が
あったが、荒れるに任せていた。康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立て、僧を置き
不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した。
その行状が評判を呼び、後白河上皇側に、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者と
好印象を与え、近習に取立てられた。また清盛側にも武士の鑑、一門の名を高めたと
好評判だったという。後白河上皇も、良い部下を持ちたかったのだろう。


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平家滅亡後の文治2年(1186年)・康頼40才?には、源頼朝によって、阿波国麻殖保
(おえのほ)の保司に任命された。康頼は、鬼界ヶ島で非業の死を遂げた俊寛を弔う為
鬼界山補陀洛寺を建てた。また文治3年(1187年)には後白河法皇から賜与された小さな
千手観音を安置する寺として慈眼山玉林寺を建立、源平の区別無く戦いで死んだ者を供養
康頼は承久2年(1220年)頃、自らの生涯75年間におきた出来事を記録。
その年に大往生したと云われる。

「宝物集」という物語は、まだ読んだ事がないが、この世で一番の“宝物”に関する
議論があるという。結論は、世間で大切とされているものは功罪半ば、幸せにもなり、
不幸せにもなるから、最も尊いものは世俗を越えた仏法だという。
私は、物語の古書を展示する企画展を観覧し、「宝物集」という物語を通じ、同時代の
人物の生き様なども考え合わせながら平康頼という人物の概略の生涯物語を知った。
「康頼物語」は、正に、仏法に則った生き方ではなかろうか? 如何なものか
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