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‘縁’ に導かれて(3) [物語]

今日のNHKTV小説「カーネーション」で糸子(夏木マリ)が、インタビュ記者に面白い事を言っていた。
以前の88人のボーイフレンドが91歳になり91人になった話から、糸子が、大切な人の輪を築けた
理由を説明する下りである。「何かに挑戦して成功した事例は、自分の為ではなく、
人の為を思ってやった時で、欲張って自分の為にした時は全部失敗した」。
「その事だけは、たった一つ、自信もって言える」というのである。

新聞記者は、それを聖書の言葉「与うるは受くるより幸いなり」に置き換えた。
この聖書の言葉に類似の諺が日本にもあるが、その意味は、「情けは人のためではなく、
いずれは巡り巡って自分に返ってくるから、日頃から親切を心掛けなさい」という事。
それに対して聖書の言葉は、「自分や与えた人々の内面が磨かれ、成長した結果として
精神的に報いられる」という風に解釈するらしい。日本の諺には、聖書の言葉のような
精神的報酬ではなく、物質的報酬を期待している様に見えるが、考えすぎであろうか?

糸子は聖書の言葉をどう解釈しているのだろうか?今日、それをうかがわせる場面がある。
昼時、餓鬼の様に「うなぎ、うなぎ」と騒ぐ糸子を見て、秘書の孝枝(竹内都子)が、
新聞にカッコつけた記事を掲載しながら恥ずかしくないか?と責める。それに、糸子は、
「人一倍欲深い人間やから、散々苦労した挙句にたどり着く境地」と、うそぶいていた。
私見では、糸子の境地は、聖書の言葉と、日本の諺の中間に位置する様に思える。
世の中の実態は、理念系ではないから白か黒かではなく、常にグレーゾーンなのである。

糸子が91歳で91人のボーイフレンドをもつという「結果」を生じる為に、その原因としての
糸子の性格は、本人も言っている様に人一倍欲深い人間で、聖人君子ではなかった。では
どうしてその様な「因」から、その様な「果」が生じたのだろうか?話は少し飛躍するが、
「縁」とは、人為的にままならないものらしい。因と果との間に「外的条件=‘縁’」が
働くから、人間がいくら作為しても、結果(果)は、ままならないのである。

聖書の言葉通り聖人君子のごとく生きても、外目からは幸せにはめぐまれない事もある。
糸子の様に、人一倍欲深い人間でも、人もうらやむ様な晩年を迎える人もいる。全ては
‘縁’ に導かれているからではないか?外目や人目から見えるものは、友だちの人数、
財産の多寡、コミュニケーションしている様、表面的外見などである。人もうらやむ様に
見える糸子も、精神的に豊かになっているのだろうか?人にはわからぬ。
駄々っ子の様に「うなぎ」やら「ヘレカツ」を食べたがるのは、如何なものか
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