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快晴散歩と古歌 [歴史]

今日は春らしい快晴。地平線に近づくに従って空は霞がかかり乳白色になっていく。
これで春らしい南風が吹いてくれるとポカポカ陽気だが、そうは行かぬと冷たい風。
昨日、春の今頃の歌を古今集の中から探していたら、次ぎの様な和歌を見つけた。
◎ 故郷と なりにし奈良の都にも 色は変らず花はさきけり 平城天皇<巻二春歌下>
「故郷になった奈良」というフレーズに何となく目が止まって、少し調べた。
平城天皇の在位は806-809。平安京遷都が794年だから、京都で天皇即位したはずで
奈良を故郷と言っても可笑しくはないが何となく釈然としない。歌の取敢えずの意味は、
◎ 青丹よし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり 小野老<万葉集3-328>
という和歌を念頭において、栄華を誇った奈良も、遷都によって色あせてしまった。
自然だけは、何も変らず花も咲くが、それが却って淋しさを募らせる、と解釈できる。
しかしそれは、表面的な平城天皇の心理描写に過ぎなかったと思う。

父・桓武天皇から追放を命じられていた藤原薬子(妃の母親:種継ぐの娘、皇太子時代から
寵愛して醜聞があった)を、平城上皇は天皇即位後、再びその兄・仲成と共に呼び戻した。
平城天皇は生来病弱だったが、その原因は、早良親王の祟りと言われていた。
早良親王は、天応元年(781年)兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めで立太子。
延暦4年(785年)9月23日夜に起った藤原種継暗殺事件の首謀者として淡路国に配流の途中
無実を訴えるため絶食して憤死。800年に崇道天皇と追称された。早良親王の祟りかどうか
平城天皇は、天皇即位後わずか三年の809年に病気のために退位。旧都・奈良に移ったが、
上皇として、京都の嵯峨天皇と、競い立つ格好となった。そして藤原薬子の乱(810)。
平城天皇は薬子の乱後、嵯峨天皇の温情で生き残ったが、主力なき後の取巻きは隙間風吹く
淋しい状態となった。対照的に嵯峨天皇は、相次ぐ戦乱を納め「薬子の乱」後は、国内の
治世に力を注ぎ、文化面も花開いて、後世の人々に「弘仁の治」と讃えられた。

◎ 故郷と なりにし奈良の都にも 色は変らず花はさきけり 平城天皇<巻二春歌下>
という和歌の裏には、こんな凄惨な事件と、平城上皇の完敗という結果があったのである。
平城上皇のこの歌に託した心境は、「国敗れて山河あり」にも等しい詠嘆だったのでは?
崇道天皇に関しては「2010.10.08」と、 「2011-09-14」のブログに取上げた事がある。
今回は和歌から辿り着き、古代政治の質の問題を図らずも味わう事ができた。現代政治も
質の問題は同根だと直感した。基本は仁愛&聡明な知力、決断力、実行力ではないか?
一般人には、一昨日のブログで取上げた八つの欠点(八疵)と、四つの欠陥(四患)を
捨て去るのは無理?しかし政治家こそ、それらを捨て基本を身につけねば!如何なものか
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