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2012春分の日・雑感 [和歌・俳句]

今日は春分の日。風は少し冷たかったが、いよいよ、桜の季節の足音が聞こえてきた。
ふと春分の歌が、昔の和歌や俳句にないかと思い、少し探索してみたが見当たらなかった。
私の探索不徹底の為かも知れないが、二十四節気に関して調べた結果を基に、その理由を
少しばかり推測してみた。非常に雑な考えであるが、昔の人の気持を思い描くのも一興?

古今集には、立春や立秋の歌がある。例えば立春では
◎ 春立てど 花も匂わぬ山里は ものうかる音に鶯ぞなく 在原棟梁<卷一・春歌上>
歌意:春が来たのに梅の香もせぬ山里では鶯も、もの憂そうな声で鳴いている
更に、俳句では、
◎ 春立つや 新年古き米五升 ばせを 天和4年(1684)芭蕉41歳
また、立秋では、「秋立つ日読める」という題で、有名な歌がある。
◎ 秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行<卷四・秋歌上>

この様な結果から、二十四節気は、古代より日本で知られ、江戸時代前期17世紀には、
一部の支配階級のみならず、庶民階級にもそれなりに普及していたと思われる。しかし
立春・立夏・立秋・立冬など季節の始期による区分の方が、春分・夏至・秋分・冬至など
季節の中間点による季節区分よりも、日本人の体質に合っていたのではないか?
私の考えでは、日本人の季節感は、季節の変わり目というものに繊細に働くのだと思う。
季節の中間点(盛り)はその季節の様々な物事で充満しており、季節用語を使う動機不足?
よみ人知らずで、次のような和歌を見つけた。
◎ 春ごとに花の盛りはありなめど あい見む事は 命なりけり 古今集<卷一・春歌上>
歌意:春の花の盛りは毎年あるだろうが、その花盛りに出会うのは一期一会、命がけ。
春の盛りと出会う事は、命がけであり、もはや時の移ろいとは異なる次元である。

季節の変わり目における繊細な情感は、棟梁の和歌で言えば、絵に書いた様な「梅に鶯」
ではなく、花もない梅の木と鶯の間延びした鳴き声の組合せが、在原棟梁の心の中で、
立春と、わびしい山里とを対比させた心象風景を、見事に結実させたのだ。
立春(新年)を迎える慶びは、死を予感する冬を越した慶びでもある。そういう慶びは、
冷暖房完備で、衣食に何の苦労も感じぬ人々には分からないだろう。芭蕉の句で言えば、
昨年から蓄えの米が五升あるという何とささやかな事に感謝する芭蕉の「唯足るを知る」
心や、そういう生き方から湧き出てくる悦びであると思う。素晴らしい和歌や俳句を創造
する人々は、物質的充足よりも精神的充足を常に優先していると思うが?如何なものか
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