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お水取りと日本人の心 [希望]

今日は、奈良・東大寺二月堂のお水取りの日である。「お水取り」というのは、
今日深夜(13日の午前1時半頃)、若狭井(わかさい)という井戸からご本尊の観音さまに
お供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われる。
この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、大きな松明(たいまつ)に
火がともされる。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれる様になった。

「お水取り」は神聖な宗教儀式である「修二会(しゅにえ)」の付属的なものだったが、
庶民は、水と火の神聖な儀式によって、修二会の意味を直感的に捉えたのではなかろうか?
そこで修二会の宗教的な意味は何なのだろうか?(詳しくは東大寺ホームページ参照
 http://www.todaiji.or.jp/contents/function/02-03syunie3.html

修二会は、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁(ろうべん)僧正の高弟、実忠和尚が
創始されたという。その縁起というのは中々興味深いが、現代人には難解というか、想像に
絶するというか、この辺りが現代人と古代人との断絶する領域ではなかろうか?私は、
能もなく「夢のお告げ」的な解釈をしたが、兎も角修二会は、実忠が天上界の諸天衆から
苦心惨憺して、教えてもらった十一面悔過(けか)という行を修する法会であるという。

さて、十一面悔過とはどういう行か?本尊・十一面観世音菩薩に対して、
日常に犯した過ちを懺悔(さんげ)する行である。仏教では、人間の心を蝕む根本的な
三つの煩悩を毒に喩えて三毒と呼ぶ。すなわち、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・
愚癡(教えを知らないこと)の三つで、略して「貪瞋癡(とんじんち)」ともいう。
古代人は三毒を原因として、心身から発する言葉や思いを通してさまざまな罪過を犯し、
罪過の蓄積で災禍を生むと考えていた。だから悔過即ち、懺悔をする事によって、
災禍の無い世界の実現と同時に、幸福をも呼び込もうとしたのである。

私は、お水取りの儀式を通して、古代人(奈良時代)の心の美しさをしみじみと感じる。
彼らは、人災はもとより天災まで、自らの心の内に原因を求め、己の不徳を恥じたのだ。
お水取りの儀式は、そういう彼らの心に、罪過を祓い清める行として、素直に感じ取れた
のだと思う。そしてまた修二会は、創始以来、1260年の間「不退の行法」として、一度も
欠かさず続いているとの事である。その事を考えると、古代と現代では個別的には断絶も
あろうが、日本人の「心」は今もなお、その美しさを保ち続けているのではないか?
今の世の中、貪瞋癡が目立つが、多くの人々は懺悔している? 如何なものか
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