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散歩つれづれ'11.10_(3) [閑話]

今日は霜降(そうこう)、二十四節気の第18、立冬(今年は11.8)の前の節気である。
露が冷気によって霜となって降り始めるころ、ということだが、今日も昼間は暖かだった。
NEC_0069屋敷.JPG汗を滴らせながらの散歩だったが、今日も朝見た「カーネーション」の
場面を確認に某所を経由した。
今朝、最初の画面に出てきたのが写真の屋敷である。TVの映像
は斜め上からのカメラアングルだったから気付きにくいが私に
はよく分かった。物語の中でパッチ屋の職人・山口(中村大輝)
が、パッチ屋を首になった糸子(尾野真千子)の見舞いに来る。
その時に、石橋の上で二人が話す場面があるが、あの橋も、地元では有名な橋である。NHKTV小説「カーネーション」は、物語的な興味もサルことながら、時々でてくるわが町の映像を見分けることが、非常に楽しみになってきた。TV鑑賞にも様々な楽しみ方があるものだ。

全く話は代わるが、最近、読んでいたアルボムッレ・スマナサーラ著「怒らないこと2」サンガ新書043
について、私の読み方、考え方を少し、まとめておきたいと思う。
著者は、スリランカの小乗(上座ともいう)仏教の偉い坊さんとのこと。なかなか良い事を書いている
が、「いわしの頭も信心から」と、書いている内容を、頭から信じるのは危険である。如何なる書物も批判的に読まないと、自分にとって役に立たない、間違った生き方を採用しかねない。

本書の底流には、当り前かも知れないが、小乗仏教がある。本書を最後まで読み、統合的に著者
の考え方を読み取ればわかると思うが、大部分は小乗仏教の解釈が前面に出過ぎているので
古い考え方として切捨てられかねない。また小乗仏教的視点だけを後生大事にして、バランスを
欠いた理解になりかねない。せっかく良い事を書いているのに、それは勿体ない。
古い事が悪いわけではない。ただ新しい仏教や知見も取り入れて、考えるべきだと思う。

私が一番引っかかった点は、怒りを「悪」の様に扱い過ぎている点だった。
生物がエントロピー増大の法則に抵抗する営みを、怒りという言葉で表現するのには多少問題が
あると思う。生物が、エントロピー増大の法則に抵抗する営みを続けている事は明白である。
「エントロピー増大の法則」が、神の意思なら、生物は、神の意思に逆らっていることになる。
「エントロピー増大の法則」はマクロな法則で、エネルギーレベルが高い間は部分的に減少する
現象も一般的である。地球は地球自身のエネルギーレベルと、太陽光線のエネルギーによって
生物が、エントロピー増大に抵抗できる環境にあるのである。

さて、著者が云いたかった事は、人間の傲慢に対する警告だと思う。
大昔は、エントロピー増大に抵抗するために、人間は毎日、毎時間、命を削る思いをした。
命の火を絶やさぬように様々な精神的な活動があり、「怒り」もその一つであろう。


一般生物には、エントロピー増大に抵抗できる環境限界があり、それを超えられない。
しかし人間は環境を改変して、エントロピー増大に抵抗し続けている。この場合の環境とは
人間を取巻く自然環境に止まらない。人間の精神、思考の限界を超越する事も含む。

著者が言いたい事は、人間の精神、思考の限界に関して、何でもかんでも超越すべきではない、という事ではなかろうか?例えば、沢山の命を奪う戦争を、国のためとか、敵国の不正のためと
いう意見をガナり立てる精神や、思考にまで超越することが、傲慢だという事なのだ。
またそういう異常な精神、思考の人間のいう事に、恋々として支配される事への忠告では?

「無常」とは変化し続ける事である。異常な精神、思考の人間に支配される人々は「無常」では
なく、何時も立ち止まり、或は精神的・思考的に昼寝しているから、支配されてしまう。
ある意味で、本源的な「怒り」、即ちエントロピー増大に抵抗する本来の目的を忘れている。
その代わり枝葉末節の「怒り」、即ち下らない物欲に惑わされ、つまらぬ「怒り」に右往左往する
ことになる。社会的な指導者層も本源的な「怒り」を忘れ、社会をゲーム感覚で弄繰り回す傲慢な
「怒り」に身をやつす。本源的な「怒り」を忘れない事こそが、超越してはならぬ「人間の精神、
思考の限界」だと、著者は言いたい? 如何なものか
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