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信頼を得るには? [歴史]

今日も昨日と同じ、いやそれ以上に真っ青な快晴で爽やかだった。風も涼しかった。
それでも、日中のSJ(スロージョギング)では、たっぷりと汗が出た。
 戦国時代(1467-1575)が長引いた理由は、室町幕府の政治的権威がなくなり、各地勢力が
互いの信頼を失い、勢力争いをしたためである。しかしそういう混乱の中で、秩序を樹立する
方法として、集団間で信頼関係を築くようになった。
 その事が小冊子「尼子氏と戦国時代の鳥取」を読んでわかったのである。信頼を得る方法は
多種多様だと思うが、戦国時代にも信頼関係を築く事を心掛けていた武将が居たのだ。
それは三本の矢で有名な毛利元就(1497- 1571)である。
元就の戦略(自軍を信頼関係のある集団とし、信頼関係のない集団を自軍に吸収する)は、
戦国時代の乱闘騒ぎとは一線を画するものだ。毛利元就の戦略と対照的なのが、それ以前の
武将達の戦略(力による支配・侵略)である。小冊子に出てくる旧式武将の代表例は、
月山富田城(島根県安来市)を本拠とする守護大名・京極氏の守護代・出雲尼子氏である。

毛利元就は、安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)の小規模な国人領主から
中国地方のほぼ全域を支配下に置くまで勢力を拡大、中国地方の覇者となった。
数々の戦いを経験したが、小冊子では尼子氏の盛衰に伴って毛利氏との関係を語っているので
此処では、その記述内容を基に、元就以前の武将と、元就の戦略の違いを考えた。

尼子氏は、近隣の伯耆そして因幡(現在の鳥取)に攻め込み領地を拡大した。負けた領主で
生延びた人々は再起を図る。尼子氏は昨日のブログにも書いたが、叔父-甥の内紛等があり
山陰地方に毛利氏の勢力が拡大する。尼子氏に追出された地元領主が、自分の領土を取戻す
に当たり「毛利氏のご威光」と書かれた文書も残っている。本拠復帰に毛利氏が大きく関わって
いたという。毛利軍の尼子氏の本拠・月山富田城の包囲網は、元就が築いた人脈によって、
徐々に絞られて、永禄9年(1566)尼子義久(?-1610)は元就に降伏した。しかし、義久は
富田城を退去後、何らかの刑を受けたろうが1589年以降は客分として余生を送ったと言う。

尼子氏の本拠・月山富田城の背後の山は砂鉄の産地で、その資源による豊かな家柄だった。
戦国時代の前・中期の各地の領主は代々の資産家であった。そういう金持のぼんぼんでは、
資金を使って戦争に勝つ事はできても、新しい秩序を構築できないのである。
次男に生まれ、父親の死で相続した領地を家臣に奪われ、貧乏な少年時代を送った毛利元就は
人の情けを知る人間として育った。徳川家康等もそうだが、若い内に苦労して育っていないと
信頼関係の構築、引いては新秩序の樹立等、なかなか出来ないのでは? 如何なものか
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