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散歩つれづれ'11.10 [思い出]

10月も半ばになった。この辺では、刈入れは1/3程度?例年よりも少し遅れている?
昔は二毛作、三毛作と、生産性を上げる工夫をしていたが、最近は大体、刈入れ後はお休み。
慌てて刈取らず、実入りを良くした方がいいのだろう。
それにしても稲が疲れたのか、結構、倒れている田んぼもあり、人事ながら心配だ。

今日も曇天散歩だった。数分程度は小ぬか雨に会ったが、傘を差すには至らなかった。
散歩道ではまだまだ金木犀が良い香りを発散しているが、先日の山の方は既に散っていた。
数十キロ北の里山でも、晩秋の到来は早いのだろう。
百日紅は、さすがに、花も余り残っていないが、まだ、枝に頑張っているのもある。
やはり、温暖化で、植物の閉花の時期が遅れ気味なのかもしれない。

金木犀の香りから、最近は私が生まれ育った家の門の脇にあった金木犀の事を思い出す。
金木犀の香りは、住んでいた当時や生家から離れて住むようになってからも、別に何とも
思わなかったが、最近では、何だか感傷的になる。
香りが、丸で母の香りだったような懐かしさを覚えるのである。

母は私の20代半ば、56歳の若さでこの世を去った。
今では、私の人生の約35%しか実在していなかったが、母の存在は数量では計れない。
兄を幼くして亡くした母は、病弱な私を大事に育てすぎた。
私の後には、実質的に子を産めない体になっていた母にとっては、仕方なかったろう。
しかし私にとっては、それが大きな重荷となって、母との葛藤があった。
戦時中の様々な物資が乏しい中、私を産む時の大き過ぎた負荷と、私の我儘とが、
母の寿命を縮めたのではないかという思いは、母の死後、長く私の心を苦しめた。

私はふと気付かされた。金木犀の香りが、母の思い出に結びつく様になって、
いつの間にか、母との葛藤から、自分の心が、自由になっている事に。
私は、母に対する負い目のために、母の思い出を心から締め出していたのだろう。

そう気付いた私は、まだまだ自分が母から自由になっていない事にも気付かされた。
様々なしがらみから、逃げていても忘れていても自由になることはできない。
向き合っていかなければならないのだ。そうだ。もっと母と向き合わねば!
そして、母と向き合うという事は、己と向き合うということ。如何なものか
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