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生命に関する感慨 [閑話]

今日は、俳聖・松尾芭蕉の忌日である。元禄7年の今日(といっても暦が現在とは異なる?)
現在では若すぎる51歳で現世を去った。死後、317年の間、彼の名声は途絶える事もなく、
ますます彼の精神は生き続け、一般庶民に、いや庶民にこそ愛され、大切にされ続けている。
そんな日に、たまたまNHKBSプレミアムの二つの放送を見て釘付けにされた思いを書き記す。
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1つは、オーストラリアのメルボルンの海に年に一度、グレートスパイダークラブ(大クモ蟹)という日本の固有種・高脚蟹に似たカニが大集結する理由を探る番組「ワイルドライフ」である。(写真はその様子)。大クモ蟹の産卵は浅瀬で行われ、小さい時には浅瀬に住むが、大人になると普段は深海に生息するらしい。集結の規模は、100m四方(サッカーグランドより広い)に、甲羅の大きさ約20cm、脚の長さ40cmのカニが、四方八方からウン10万匹も集結するという大規模なものである。

大集結の理由は「脱皮」だった。セミや蛇の抜け殻などでお馴染みの脱皮だが、大クモ蟹の脱皮の物語を見せてもらって、生命の成長とか、再生ということを考えさせられた。
大クモ蟹の脱皮には多くの危険が伴うのである。成体になってからの脱皮には大変なエネルギーが要る様だ。また脱皮直後は、外皮がまだ柔らかく、動く事もままならない。そういう弱みに付け込んで、オットセイやエイ、小魚も、そして普段は、大クモ蟹がエサにしているヒトデまでが脱皮直後の大クモ蟹に寄ってタカって襲い掛かる。実に無常の生命の世界である。
 大クモ蟹が大集合する理由は、そういった外敵攻撃による被害を抑え、種の保存を優先するためだと、番組では説明されていた。しかし私は、それにも増して、脱皮という行為の大変さ、特に高齢化すればする程、大変だという事が大きな理由だと思う。脱皮は、新たな生命の誕生(再生)であり、成長を意味する。脱皮に必要なエネルギーが湧き出てくるために、成長し再生する苦しみを、仲間と共に分かち合うのではなかろうか?
 大集合した大クモ蟹の中には、脱皮前に既に事切れているものも居た。また脱皮途中で力尽きるものも居た。しかし彼らは大勢の仲間と共にあり、賑やかに天寿を全うしたのであり、仲間の脱皮を勇気付けたのである。年に一度、満月の夜に、大勢の仲間と会えるからこそ、また頑張って一年間、勇気を持って生きていけるのではなかろうか?

もう1つは、映画「シャングリラ」(2008年中国)である。これも途中から見出したのだが、
謎めいた語り口に引き込まれて最後まで見てしまった。他愛のないおとぎ話(映画の中にヒロインの愛した息子のおとぎ話の本が出てくる)ともいえるが、この映画は、大クモ蟹の物語との対照による、命と成長、再生といった視点から、いろいろな事が見えてくる物語であった。息子が宝にしていたチベットに伝わる「おとぎ話の本」が、この物語の謎を解く「鍵」である。


中国の若い夫婦(大富豪)は愛息子を交通事故で亡くす。母親・リン(チュウ・チーイン)は
証拠のない犯人を訴え、裁判を継続して夫婦仲は危機的状況。リンは息子と過ごした思い出に
打ちひしがれ、また死なせてしまった自分を責めて、息子が一緒にやって欲しがった「宝探し」を
始める。それは、息子の絵に誘われるチベットのシャングリラ(理想郷)を訪ねる旅だった。
この旅には2つの意味があったと思う。息子が何故死んでしまったのか?そして、
自らが息子の死を乗越え、脱皮して再生できるかどうか?を問う旅であったのではないか。

愛息を失った若夫婦は、現代では怖いものなしの成功型アジア的個人主義の典型だ。
この種の人間が愛息を失えば必ずこうなる、というものではないが、ある種の関門ではある。
息子の死は物理的・医学的には交通事故死に間違いない。しかし母親・リーには納得できない。
何故、あの時に息子が死ななければならなかったのか?自分に落ち度は無かったのか?
それを尋ねる旅は、その理由が明らかになる事によって、また成長と再生の旅にもなる。

旅は、チベットの自然の中で幻想的に展開される。それは、精神を病んだリーの心象風景とも
云えるだろう。旅の最後に途中で出会った少年と共に息子を探して香格里拉(シャングリラ)の
背後に聳える梅里雪山の懐深く入り込む。そして大きな滝の傍までたどり着いた時に、滝の上に
一人の少女が現れた。「少年はもう行かなければ!」と悲しげにいう。リーは少年が少女を愛し
あちらに行きたい事に気付いたが、何故そんなに悲しい顔をするのかと足元を見る。何と少年は
鎖で足を縛られているではないか?(事故時に息子が動けなかった事を暗示している?)リーは
瞬時に全てを了解する。その少年が自分の息子である事を。そして生前、自分が母親の権威に
よって束縛していた事を!彼女は少年に謝り、鎖を解いてやる。少年は少女と共に、霞の様に
消え去った。そしてリーは、全てを知り、滝つぼの中へと静かに進み入水自殺を図る。

三日間の昏睡状態を経て、リーは再生し、夫婦は元の鞘に納まる。息子の遺品を整理していて
リーは一冊の絵本・息子の愛読書・おとぎ話の本を見つけた。その最後のページには、「ママ、
とうとう宝物を見つけたね!」という意味の言葉が書かれていた。愛息が一緒にして欲しかった
宝探し遊びの宝物は、息子の枕カバーに包まれて、枕の下にあった。

政治家は、生きる事は当り前、成長は学校に任せれば良い、社会で育てるのだ、などと云う
民衆に踊らされているのか?それとも、民衆が、トンでも発奮の政治家に踊らされている?
兎も角、現代の世界中の多くの人間は、何かを見失った代償を払わされる? 如何なものか
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