SSブログ

彼岸の入り'11 [閑話]

◎ 彼岸入り 今日は聞こえぬ 蝉の声
昨日は天気が回復し、蝉(ツクツク法師)の声を聞いたが、今日は静かだった。
まさか、蝉が「彼岸の入り」を察知して、遠慮したわけでもあるまい。
年々、蝉の声が、九月に入っても長く聞かれるようになった。温暖化なのか?
そういえば、着るものも、夏着のままの時期が長引いているような気がする。
2007-10-11のブログ「衣更え」で、衣更えの時期に関わらず夏着で散歩したことを
楽しげな「歌詞」的文章にしたのも、楽しい思い出である。

◎ やがて死ぬ けしきはみえず 蝉の声  元禄三年(1690) 芭蕉47歳
この句について、禅者・鈴木大拙は、禅と俳句の関係から解釈している。
「蝉は、人間の悩みなど知らぬ。寒くなればいつでも終わるべき自分の生命に焦らぬ」
「啼ける間は生きていて、生きている間は永遠の命だ。無常を思い煩って何の益やある」
「蝉は我々の為に、信仰うすき者への神の戒め(マタイ伝6-30)を引用するに違いない」
「俳人はみな、直覚で明日を恐れず、蝉などの内的生命を理解するのである。」

さて室町時代に、くじ引で将軍になった人がいた。足利義教(治世1429-41)である。
青連院門跡准三后という当時最高の僧官の身から還俗して将軍になった。御籤で選ばれた
義教は、「神意によって王権を授かった」という意識が強かったのではないかという。
義教の方針は、現実を無視するような強引なもので、逆らえば死罪の確率が高かった。
仏教に帰依して何を学んだのか?要するに「自己の信念+理屈」で恐怖政治を強いた。

一族滅亡を覚悟して義教を宴に招いて騙し討ちにし、この恐怖政治に待ったをかけたのが
赤松氏当主・教康率いる赤松一族である。これを「嘉吉の乱」(1441)という。この事件で
義教は首をはねられた。これを、当時の御花園天皇の父・伏見の宮 貞成王は日記に
「自業自得、力なき事か、将軍かくのごとき犬死、古来その例を聞かざる事なり」と書いた。
事件後、退却する中に赤松満祐(当主の父)もいて、本懐を遂げ満足の様子だったという。
混乱の中とはいえ、幕府によって赤松氏は討伐された。その後、応仁の乱(1467-77)等で
播磨の領地回復のため赤松・山名の血みどろの戦いが繰返され、一時、赤松は絶滅かと?
しかし満祐の弟・義雅の嫡子・時勝の遺児・政則が、奇跡的に生き延びた。長享2年(1488)
赤松政則は、書写坂本城の合戦で山名軍を破り、播磨の領土を回復した。赤松政則による
播磨の領土回復の頃から、「戦国時代」と呼ばれる様である。恐怖政治、クーデター、一揆、
領土紛争等が渾然一体の情況は、世界に拡大すれば今も昔も変りはしない?如何なものか
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。