SSブログ

「おひさま」106回 [物語]

陽子(井上真央)が抱える今日の課題は、最初の教え子・石井恵子(寺本純菜)からの手紙。
手紙で恵子は、父親は戦死し、病弱な母親と二人の生活を支え、製糸工場で働いているが、
「分からない事が多くて悔しい。どうしたら良いのでしょうか。」と訴えていた。最後に
「陽子先生、私は怖いです。このまま暮らしていて私はどうなってしまうのでしょうか。
さふだん(相談の旧仮名遣い)する人もいないし、どうしたらいいのでしょうか。」
と書かれていた。陽子を頼りにする昔の教え子からの「助けを求める声」である。

恵子の問題を「生きていくために必要なことを教えないまま社会に放り出してしまった。
その責任が私には有る」と、陽子は考えた。
私は、この考え方に賛成ではない。こういう考え方は、個人が無限責任を負う事になり
問題が却って曖昧になってしまうからである。この関連では、2011-06-18「おひさま」
第11週のブログでも書いた。「命の大切さ、生きる歓び」を教える責任が、教師にのみ
ある訳ではないのと同様に、恵子の問題に対する責任も陽子にのみある訳ではない。
しかし、当該ブログの最後に「本当に子どものことを思うなら、一人一人個別事象として、
きめ細かく考えなければならない。」と書いた。恵子の件は、正に個別事象に相当する。

陽子における恵子の問題の捉え方は、辞職問題とは別の意味で「社会と個人の相克」という
側面を帯びていると、私は思う。陽子のこの様な考え方は、戦前はいざ知らず、戦後の
公教育界において、簡単に受入れられるものではないだろう。現行教育基本法において
社会や家庭の役割が新設されていることでも明らかである。旧法は、「教育勅語」などの
社会や家庭の束縛が軍国主義を育んだとされて、社会や家庭の項目が省略された。しかし
だからと言って、学校教育が、子育ての無限責任を負う等という発想は当然なかった。

恵子の手紙の返書に、陽子は「大丈夫。働いていたって勉強は出来る。先生はいつでも
あなたの先生だから頑張ろう。」と書く。そして、自分の同級生・ユキ(荒川ちか)に
夏子先生(伊藤歩)が、同様のことを言って励ましたことを思い出していた。
陽子は教え子が相談に来てから責任を感じてアドバイスする。夏子先生は、相談の前に
適切なアドバイスが出来る。同じ戦前の時代の先生でも、スケールが違うのではないか?

陽子は、夏子先生を辞めさせてまで自分が学校に残ることの不自然さを最も悟っている?
辞職に関する陽子の悩みは経済的問題ではなく、「生甲斐」を何に見出すか?であろう。
その活路は、陽子独自の「恵子の問題の捉え方」の中から発想できる?如何なものか
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。