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新鮮な出会い_E [現代詩]

「倚りかからず」という詩と出会った縁で、三日間、茨木のり子の詩を通して、
彼女の思いを、生きた時代背景なども織り込んで、辿ってみた。
最初は、生前最後の詩集『倚りかからず』と、初めての詩集『対話』の中の詩を比較対照し
彼女の半生を概観。素晴らしい成長の跡、融通無碍の心境を見出した。
二日目は第二詩集『見えない配達夫』を取上げ、同名の詩「見えない配達夫」は、ネットや
電子メールを予言した未来予測詩ではないか?と読んだ。彼女が未来に対する不安や不満を
抱いていたにも拘らず、未知への期待が彼女の人生を支え、成功の大きな柱となったのでは?
そして三日目は第三集目の詩集『鎮魂歌』の詩をもとに、詩の難しさ、表現の極致に迫った。
その試みは大胆不敵。三日の命のカゲロウが、寿命万年の亀の寿命を気遣うに似ていて、
世間一般から見ればお笑い種? だが私は大真面目である。

さて今日は同世代の須藤陽子(TV小説「おひさま」のヒロイン・陽子がのり子よりも4歳年上)と
比較するというチョッとずれた視点から、茨木のり子に迫りたい。
時代背景・育成環境が、それぞれの生き様に、どの様に影響するのか?どう違ってくるのか?
茨木のり子の詩や、随筆からどういう情報が読み取れるのか?
(「おひさま」は、現在進行形であり、未知の部分も多い。)

今までのドラマの展開と、茨木のり子の詩を読んだ現段階で、私の感じた事は以下の通り。
1.二人共、敗戦前には軍国少女であったろうといえる。戦後の事は「おひさま」の展開待ち。
2.陽子(井上真央)が、軍国教師の竹刀の下に身を挺して児童を守った昨日の場面
  茨木のり子だったらどうするだろう?という疑問。

陽子が竹刀の下に飛込んだ昭和16年、のり子は随筆「はたちが敗戦」で書いている。女学校の
中隊長に選ばれ、号令は凛々と響き渡り、全校400人を裂帛の気合で一糸乱れず動かせた、と。

第二詩集『見えない配達夫』の中に、「悪童たち」という詩がある。
“春休みの悪童たち 所在なしに わが家の塀に石を投げる
 石は 古びた塀をつきぬけて硝子窓に命中する
 思うに キャッとばかり飛び出してゆく私の姿を 見ようがための悪戯で
 ・・・・以下略・・・・”

陽子が、この詩の様に“キャッとばかり飛び出してゆく姿” を、私は想像できない。




戦前、戦後を通じて、安曇野という地方に住み続けた陽子と、専門学校時代から郷里を離れ、
父親の望む自立への道を東京という魔物の世界で歩んだのり子。超エリートだったのり子には
戦前、竹刀の下に飛び込む状況は出現しなかった。戦後の陽子の世界には、のり子を悩ます
「悪童たち」は現れない?戦後、東京での自立への挑戦は、超エリート・のり子だからできた?

終りに生前最後の詩集『倚りかからず』の最後の詩「ある一行」で示された‘ある一行’
 <絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい> を力説して茨木のり子の話を閉じたい。
茨木のり子は、この一行を、1950年代(昭和25年頃?)しきりに耳にし、目にし、身に沁みた
という。詩の中で、次のように歌っている。

“絶望といい希望といってもたかが知れている
 うつろなることでは二つともに同じ”
 そんなものに足をとられず 淡々と生きて行け!
 というふうに受けとって暗記したのだった
  ・・・・中略・・・・
 今この深い言葉が一番必要なときに
 誰も口の端にのせないし 思い出しもしない”

この詩を作ったのは、恐らく、阪神・淡路大震災などを踏まえてのことだろう。
なぜならこの一行が、身に沁みたのは、敗戦後の痛切な経験に基づくのだろうから。
さて現在は、安易な慰め、安易なコマーシャルが巷に溢れる情けない状況だ。
この深い言葉を活かすべき時にもかかわらず、現代の茨木のり子も居ない?
「いま解決できなかったことは くりかえされる より悪質に より深く より広く」
(人名詩集 「くりかえしのうた」より) 如何なものか
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