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流される? [歴史]

東日本大震災は地震、津波、原発事故等の被害の大きさから、未曾有の大災害となった。
この危難を乗り切るに当たって、気を付けなければならない事が、沢山あるように思う。
しかし、今の状況では、苦言を呈するような何かを言えば、皆から白い目で見られる?

かつてブログ「2009-11-23続2・たこ壷社会[社会]」で「起承転結」サイクルを指摘した。
明治維新から終戦までの約80年間と、戦後から約60年間の世の移ろいが似ているのである。
<起>の期間は、新生日本の復興ということで目覚しく頑張る。復興が一段落の<承>の期間は
徐々にリアリティを喪失していく。そしてイケイケムードの<転>の期間は挫折(金融破綻等)
で締め括られる。この<起・承・転>は、明治維新から終戦までと、戦後から現在までとが
非常に似ている、と私は考える。戦前は、挫折を起点とした<結>の期間でもリアリティを
回復することなく、破滅の道へと突き進んでしまった。現在は戦後から66年目に当たる。
既に<結>の期間に突入している。そこに起こった「東日本大震災」にどう対処する?

<結>の期間で大切な事は、社会が喪失したリアリティを回復することだと思う。
日米安保問題、北方四島・尖閣諸島・竹島などの領土問題、国債乱発の肥大予算、政府の
情報隠蔽(尖閣問題)、自衛隊の言論封殺など民主党の政治にはリアリティが欠如している。
民主党政権は、既に死に体だった。そこに「東日本大震災」が天から降ってきた。
民主党政権には、干天に慈雨? 国費の大幅引き上げ、その他、国が全面に関与するらしい。
今や、民主党政権の失政は、「東日本大震災」の大津波に呑まれてしまったのか?

思えば戦前の<転→結>への契機となったのは、1923年の関東大震災と1927年の金融恐慌。
戦後の<転→結>への契機は、2008年の金融危機そして、今回の「東日本大震災」という事?
金融問題と大震災は前後しているが、余りにも、似通っているではないか?

私は今こそ、初心に返って考える時ではないか?と思うのである。戦前の<結>の時期
国民それぞれに言い分はあったと思う。しかしあの惨めな敗戦を分っていればもっと何か
手立てはあったはずである。もっと互いに意見を戦わせて、暴走を防げたはずである。
初心とは昭和天皇の「終戦の詔勅」の基本部分。「時運ノ趨(おもむ)ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ
忍ビ難キヲ忍ビ、以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」をジックリ噛締めるべきでは?
あの敗戦の苦しみに耐えるよりは、それを回避するために耐えた方がマシだっただろう?
人間は、歴史に学び、未来に活かすことが出来る。「東日本大震災」を口実にした民主党の
リアリティ喪失の暴走に歯止めを掛けなければ、戦前の二の前になる?如何なものか。
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コメント 1

noga

意思は、相手の理解により効果を発揮する。
恣意は、相手の察しにより効果を発揮する。

意思は本人の内容である。
恣意は本人の内容ではない。

恣意は、恥ずかしくてまともには公言できない。
恣意は、社会に受け入れられない。ここは、甘えさせてもらうしかない。

その内容はあいまいで、相手の勝手な解釈とも考えられる。
俺の目をみろ 何んにもいうな 男同志の 腹のうち。
お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか。
だから、腹を割って話さなければならない。談合が必要である。

英米人の社会には、意思を通す権力の序列がある。これにより声明を発表する。
日本人の社会には、恣意を通す権力の序列がある。これにより天の声を使う。

東条英機は、昭和天皇の意思に従って、太平洋戦争を始めたか。
それとも、昭和天皇の意思に背いて、太平洋戦争を始めたのか。

意思がなければ、社会に対する責任がない。
日本人は、意思の存在を認めることができない。
犯意の存在も証拠不十分で不起訴となる可能性が高い。
だから、日本人の社会では、とかくこの世は無責任となる。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

昔の日本人は、15歳の見習い乗子の責任は考えられたが、5代将軍と佐土原藩主の責任については考えられなかったようである。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


by noga (2011-05-10 18:52) 

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