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異文化対話のプロトコル [閑話]

以前に中島義道著「<対話>のない社会」(PHP新書)という本を引用した事がある。
この本に私の意図するような“プロトコル”が書いてある訳ではないが、<対話>が成立しない
理由を分析するには好都合な事例が様々、挙げられている。それら<対話>のない事情には
1.自己の意見を表現する文化・習慣がない。
2.「和の精神」を尊重するという文化が、オピニオンリーダ(社会的勝者、優等生)の
  ご意見をありがたく拝聴するよう強制し、議論を封殺する雰囲気がある。
3.街中に人の心を操作しようとする標語が充満していて、不満だが「御尤も」と取り繕う。
4.欧米人の考え方等を考慮せず、日本人的枠の中で、スピーチしてしまう。
5.誰からも批判の出ないような意見しか言わないが、それが不満を招く。
<対話>が成立しない理由を挙げるのが目的ではないから、サンプルはこの程度にしておく。

これらの<対話>のない理由は、発話の問題と見る事ができるが、その背景に、受話の問題が
ある事に気づかねばならない。例えば、「街中に人の心を操作しようとする標語が充満」と
いう例で言えば、標語の解釈を一面的に、「聞き飽きた耳にタコ!」と受け取っていないか?
また聞き手のことを考えているのではなく、自分の立場でしか発話していないのでは?

日本人自体が多様な文化を形成しているにもかかわらず、同じ文化圏であると勝手に解釈し
相手も皆、同じだと思い込みたいのではないか?逆の言い方をすれば多様な文化国家である
と認識することを恐れている?日本人に対話が少ないのは、端的にいえば、多様な生き方や
多様な文化を表面的には容認しながら、深い所で多様性を認めていない? それは兎も角

人の話や、書いたものを解釈するために、白隠禅師の「禅画」が参考になるのではないか?
先日、妙心寺に参詣して、白隠禅師の「禅画」に出会った。そこで、この考えを思いついた。
白隠禅師は禅の妙味を、「禅画」によって伝えようとした。これは高僧が、「禅」を教えると
いうよりも、一般庶民に日常的な狭い了見から、自らを解き放すプロトコルを授けた?
人間は、俗世の様々な利害に束縛されて、如何に近視眼になっているか を諭したのでは?

人間が、多様な文化を形成することは生きると言う事と等しい。ユングの「個性化」という
表現も出来る。しかし高度な文化や高度な個性化には、多様性を理解できるプロトコルを
欠かす事はできない。「禅」の修業は一人悟ることではなく、十方衆生を助ける為という。
高僧の悟りが、一般人を救わずしてどうする。如何なものか
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