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四方山話・師走2010・Ⅱ [閑話]

今日は、久方ぶりの雨中散歩だった?雨中散歩は、出かけるのが億劫だが、歩き出すと
傘差し散歩も慣れてきて余り気にならない。雨なし散歩には、たくさんの散歩人と行き交うが
雨中ではほとんど見かけない。今日は犬の散歩で1人と1匹を見かけただけである。
ワンちゃんは、迷惑気に目をしょぼつかせていた。犬も、雨中散歩は気が進まないとみえる。

師走も下旬になり、クリスマス商戦たけなわ。スーパー等にはプレゼントを山と積んで
ジングルベルの曲が絶え間なく流れているが良く聴くと随分と色んなバージョンがある。
世の中は平和そのもの。結構な事である。しかし思い出してみると、昭和21年(1946)の
今日は、マグニチュード8.0の昭和南海地震があった。南海地震は、684年:白鳳南海地震
- M 8.0~8.3以来、昭和までの9回の地震記録が残されており、世界的にも例をみない
ということである。日本という国は、内乱はあったが、外国に蹂躙されなかったために
このような記録も残っていたということなのだろうか?「治にいて乱を忘れず」である。

秋になって熊が山から人里に出没するのは、杉・ヒノキの人工林が荒廃して虫も鳥も動物も
棲めない、食べ物もない状況になっていることが原因の一つだと、友人のブログにあった。
それで森林政策に関心があったから、月刊 Willの「日本の森と水を守れ!」高市早苗議員
の記事を読んだ。内容は、日本の掛替えのない水資源を守るための土地や取水の規制関連の
法律論議であった。そして、「急ぐべきは水資源や森林の保全の為のルール作り」 という。
細かなことは良くわからなかったが、法律だけで守るのは生易しい事ではないことだけは
理解した。関連のある人々の資源への愛・関心、そして愛国心が必要なのでは?

昨日もタケシのTVタックルで、TPPを巡って、是か?非か?農業関係者と与野党の政治家が
ガヤガヤやっていたが、そこから私は、明確な意見の流れを読み取った。それは 「いま、
TPPの是非を論じる時ではない。」と言う事だ。日本人は、バスに乗り遅れるな!式の意見
が好きだが、今や日本の現状はそんな単純なモノではなかろう。円高の是非も同様である。
何でも是か?非か?白黒を付ける二元論的論争をいい加減にしたらどう?日本人は単細胞
人間と世界から侮られる? 隠し持ったたこ壷データで議論せず、リアリティあるデータを
共有して議論しなければ前に進まない。情報隠蔽は日本の悪弊だ。菅首相がTPPを出抜けに
言い出したのも、日本的悪弊の何よりの証拠である。森林も農業も、調査しリアリティある
データを民衆に公開し議論しなければ、何の解決にもならず先送りでは?如何なものか。
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noga

先の大戦では、日本人は精神主義で戦って、みじめな敗北を喫した。
日本人の精神力が足りなかったために、戦場においても工場においてもアメリカ人の精神力に負けたのだと考えていたとしたら、それは日本人の誤りである。

日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、日本人には能動はないが、願望はある。
米空軍が日本の都市を爆撃し始めたころ、航空機製造業者協会の副会長は「ついに敵機は我々の頭上に飛来してまいりました。しかしながら、我々航空機生産のことに当たっておりますものは、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまして、これに対処する万全の準備をすでに完了いたしております。したがいまして、何ら憂慮すべき点はないのであります」と述べた。
すべてが予知され、計画され、十分に計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ、日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、決して受動的に他から押し付けられたものではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができた。

日本人がどこで希望的観測の罠に落ちるのか、現実と願望 (非現実) を取り違え精神主義に走るのか、きちんと振り返り反省することはほとんど不可能である。
それは、日本語に時制がないからである。
日本語脳においては、現実と非現実を異なる時制を使って表現することができない。
現実を現在時制の内容として表し、願望を未来時制の内容として表すことができれば、それぞれの内容は別世界の内容となり、混乱することはない。混乱しなけれぱ゛キリスト教のような宗教になり、混乱すれば原理主義となる。

だがしかし、我が国では、一つの事態の肯定と否定は、同じ世界のこととして言い表される。
人々は、無為無策でいながら現実が願望へと突然変化 (反転) することをひたすら願うものである。
言霊の効果の出現を望んでやまない。
必勝を心の底から祈願すれば、悲惨な玉砕もあっぱれな勝ち戦に見えてくる。
実現不可能な欲望の思い込みが強すぎて、現実直視は困難になる。
これが、日本人の精神主義の本質である。
日本人は、祈願を他力本願・神頼みとしておおっぴらに認め合っている。
問題解決の能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
この閉塞状態が日本人の知的進歩の限界となっている。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


by noga (2010-12-21 23:20) 

moto

nogaさん
日本人の思考と日本語との関係についてのお説は私も常日頃感じている事です。
しかし日本語のいい面もあると思います。世界中が欧米語になって同質化してしまうことには、私は反対です。地球上の自然は多様性の方向性を指し示しています。また、人間の進歩も、個性化を尊重する事で可能なのだと思います。

人間が精神的に真の成長をするためには、精神的な異質性(決して好戦的ではない)を欠かす事はできないと思います。19世紀後半から20世紀にかけての西洋文明、或いは発展途上国の精神的な進展に寄与した日本の文化の役割は非常に大きなものがあったと思います。われわれ日本人が、西洋の精神文化をもっともっと学ばなければならないのと同程度に、西欧や、他の諸国の人々も、日本文化に学ぶところが沢山あると思います。

我々日本人は、グローバリゼーションを真に成功させるために、他国の素晴らしい文化から、精神的に成長していくと共に、我々日本人が、日本文化をもっともっと深く極めて世界に発信し、相互学習しなければ、人類の明るい未来は開かれないのでないでしょうか?
by moto (2010-12-22 20:08) 

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