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思い出'10.10.20 [思い出]

今日は10月中旬最後の日。当地では10月上旬の7日間と中旬前半4日間、夏日だったが、
このところ収まっている。今年の猛暑も、いよいよ年貢の納め時だろうか?
昨日、柿を季語とした俳句から、遠い遠い50年以上昔の親父との思い出が甦ってきた。
恐らく中学1~2年の頃だと思う。法隆寺を訪れて、野原のような所で柿を食ったのだ。
その時に父が、「この辺りの奈良の柿はうまい。“柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺”」と
話してくれた。そのことだけを思い出したが、その時に父以外に誰かと一緒だったのか?
あの柿は、どうして手に入れたのか?サッパリ思い出せないのである。

人間の記憶の入力方法、記憶維持法、出力方法は、どうなっているのだろうか?ふ・し・ぎ!
先日の「ためしてがってん」で、認知症の人も、感情を伴った記憶は残ると言う。
この法隆寺で柿を食べた記憶も、“柿が美味しかった!”という感情が伴っていたが故に
記憶に止まったのかも知れない。だが昨日の柿の俳句でどうして思い出したのだろう?
父と行って以降、法隆寺には何度か訪れたし、2年前にも参拝したのに思い出さなかった。
少なくとも2年前の訪問時は、若い頃に訪れたときと雰囲気が大きく変っていた。

いま思い出して、父と一緒に食った柿は、どの辺りで食べたのか?ハッキリしない。
そこで、正岡子規が、いつ何処で、どのようにして、“柿食えば・・・”の俳句を作ったか?
「近代詩人1・正岡子規」潮出版社、で調べてみた。以下はその本を参照して書いた。
明治28年(1895)子規・29歳。この年日清戦争の従軍記者となり、帰国途中、5月17日
船上で喀血。23日神戸上陸。県立神戸病院入院。6月下旬危機を脱し、回復の兆し明確化。
その後、須磨保養院を経て8月25日松山到着。この時期、漱石と子規は同じ家に住んだ。
10月19日、松山を出発。広島、須磨(保養院)を経て、22日大阪到着。26日奈良到着。
東大寺、薬師寺、法隆寺などを巡る。そして「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きで
“柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺”の句作構想ができたという。
怪しげな私の記憶では、2年前に訪れた時の門前の立派な茶店でない事は確かであった。
昭和29年か30年(1955)頃とはいえ、子規の明治28年にあった茶店がなかったのか?
そういえば、幅の狭い粗末な床机(しょうぎ)に座って柿を食べた。“柿食えば・・・”の
俳句を教えてもらって俳句とは簡単なものだなぁ~と思ったものだ。私の俳句の師匠は
父だったのか?父は私に素晴らしい思い出を残してくれた。父は厳しい人であったが、
その優しさが今頃になってしみじみと偲ばれるのである。如何なものか。
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