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力と愛 [物語]

今日は重陽の節句。私の親父の誕生日でもある。
奇数は陰陽では“陽”になり、重陽は陽が重なるという意味。
親父は重陽の節句が、お祓いの行事から吉祥の行事へと変わった経緯を知ってか知らずか?
親父の誕生日は、旧暦で記憶されていたとして、自分で自分の誕生日を9/9に指定していた。
その辺の経緯については、ブログ「2009-11-09 閑話091109」に書いた。

鈴木宗男議員が最高裁で上告を棄却され、異議申し立ての通る見込みもないと騒がれている。
議院辞職、収監、服役という事になるらしい。記者会見中、娘さんの話になると、鈴木議員も
涙を見せた。鈴木議員は、「娘は、健気に父親を励ましてくれる。」と言っていた。

私は、鈴木議員の犯罪について、検察と鈴木議員のどちらが正しいのか?分からない。
私の考えでは、公職の高い地位にある人の裁判は、ある種の権力闘争であると思っている。
被告側も、検察側も、ある種の権力集団に属しており、両集団による権力闘争なのだ。
明らかな証拠でもあれば、全く問題はないが、状況証拠や調書のみによる裁判は、本来は
“疑わしきは罰せず”の原則論から言えば、有罪にはなりえない。しかし、社会秩序を維持
するという建前から、両者は権力闘争によって決着を付けようとするのである。

坂本竜馬の暗殺は、幕府・新撰組の仕業ではなく、薩長によるものだという説が根強い。
その理由は、倒幕のために薩長連合を説いていた裏で幕府と公武合体工作をしていたから。
これに薩長は激怒したというのである。鈴木議員の問題も、ロシアとの関係などにおいて
これに似たような、チョッとやばい事象があったのではなかろうか?

権力、軍事力、暴力、腕力には、最終的に論理など通用しない。最後は力である。
今回の代表選で、小沢が勝って首相になれば、小沢に対して検察も無理をしないだろう。
本来、民主主義政治における三権分立という大原則は、こういうことではない。
残念ながら、日本の民主主義は、借りてきた猫で、ねずみを捕らない。形だけで魂がない。
従って、正しく機能しない。本来の民主主義政治には、“愛”が無ければならない。
本当の民主主義政治では“愛”が根付くよう、国民も国家も不断の努力を惜しまない。
“愛”とは、自己犠牲の精神である。罪人となる父親を必死で支える娘さんの心である。
その心が、父親だけでなく、全ての人に開かれている事である。如何なものか。
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