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夏越祭と季節感 [閑話]

今日は、年に二度ある「大祓い」の日、「夏越(なごし)祭」ともいう。大晦日も「大祓い」の日
である。こういったことから、古代日本では6ヵ月ごとに年をとる習慣があったという説もある。
本来は旧暦の6月晦日と12月晦日が大祓いの日だった。今年だと8月9日と2月13日に当たる。
夏と冬の厳しさの峠を越したという、安堵感から発する感謝の祭りではなかったか?と思う。
太陽暦では、これからの厳しい暑さ、寒さへの心構えを改めて再確認すると捉えられるだろう。

暦上の様々な行事は俳句歳時記に多く取り入れられているが、例えば「夏越祭」も、上述の様に
同じ夏とは言っても、新暦と旧暦では随分と季節感が異なる。「端午の節句」などは、旧暦だと
今年は6月16日に当り、新暦では「春」、旧暦では「夏」と、季節が跨ってしまう。
旧暦の行事を新暦に引越しさせる時に、こういう問題を踏まえて、本来の意義、発祥の理由等を
考慮して日付を考えなかったのか?俳句の世界では、こういう問題をキッチリと整理し、誰でも
わかりやすくなっているのだろうか?「端午の節句」は私の歳時記では「夏」になっているが、
それは旧暦時代の人々の季節感である。旧暦→新暦の切替は日本では明治5年(1872)
からという事になっている。(必ずしも全て切替っているわけではないようだが。)しかし、
既に148年を経過しており、新暦による季節感が定着した人々が大勢できている事実も無視でき
ないのではなかろうか?まあ、この種の問題は大勢に影響ないということだろうか?
この様なことを曖昧なままにしておくのが日本人の特質ではないか?

日本の曖昧さを追求すれば、相撲界の野球賭博、古くは朝青龍の暴行問題、官僚天下り問題
箱もの行政等、掘返せばいくらでも出てくる。それに限らず旧暦と新暦の問題にも見られる様に
日本人は生活習慣のあらゆる局面に、曖昧さを残している。それにもかかわらず、現代日本は
曖昧さを残さず、全て白黒付けたがる傾向が強いように思われる。

この様な傾向が強められる要因には、犯罪の多発、凶悪化など道徳的退廃や国民の欲求不満が
あるだろう。そういった観点から厳しい犯罪の取締りも必要だろう。しかし一方において、
それは犯罪という症状への対処療法でしかない。道徳的退廃を未然に防止することは警察権力
では限界がある。それにもかかわらず、このような活動が国家権力と国民感情の複合作用で
強められ、ある種の運動になっていくならば、それは冷戦時代の米国の“赤狩り”や中国の
“文化大革命”にも匹敵する様な愚行になりかねない?と心配されるのである。
マスコミなどに猛省を促したい。如何なものか。
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