SSブログ

日独と時代循環 [歴史]

連日オリンピックのニュースが流され、平和な雰囲気を醸しているが、冬の時代に突入した日本の
陰鬱な気配は一向に晴れそうにもない。雑誌や週刊誌で、民主党や鳩山首相、小沢幹事長に
批判が集中しているのは決して悪い傾向ではないが、その先が見えない中で一般庶民は
大きな不安を抱えていると思う。私もその一人である。そこで暫し歴史を振り返って、
現代の我々の状況を少し客観的に眺める事によって、我々庶民はどういう心構えで
リアリティを把握していけば良いのか?考えてみた。

昨日、“起承転結”サイクル(2009-11-23ブログ参照)を季節に割り振って、現代を冬季の
始まりと位置づけたが、1サイクル前の冬の時代:1920代~1945を振り返ってみた。
この時代は洋の東西、即ち日本とドイツで全体主義化が進行した。その動機や内容は
当然違うものだった。ドイツ・ナチズムの背景には、キリスト教の衰退よるニヒリズムがあった
と言われるが、当時の日本の全体主義は個人の内的問題から発したものではないようだ。
明治維新以後、自由民権運動の挫折と共に、江戸時代の庶民的心の自由も吹き飛んで、
危険思想の持主を庶民間で監視する“隣組”等の組織化により庶民の内面まで監視された。

さて現代の日本を考えた時に、戦後アメリカの指導の下に進めてきた民主政治に対する失望と
その反動のニヒリズムの台頭があるのではなかろうか?そういったニヒリズムが過度な批判精神と
なって朝青龍騒動や国母選手騒動へと揺らぐのではないだろうか?
ナチズムは伝統的な価値観等を破壊する極端な批判に伴う強制的同質化によって出現した?
それに対して朝青龍や国母選手への批判は、伝統的価値観を尊重しすぎる戦後民主化への
過度な批判とも受け取れる。であるならば普天間基地問題も、旧政権(自民党政権)への
過度な批判的行動とも考えられる。現代日本に第二次世界大戦前の国家監視はない。
だが、以上のような事象を冷静に観察する時「過度な批判精神が、従来の戦後の価値や
組織を破壊する」ことによって全体主義が蔓延ることは容易に予想できるだろう。

現代日本人は、戦前の不自由な時代ではないのだから、全体主義等になるはずがないと
思い込んでいる?しかし例にあげたナチスドイツの様に、自由でも全体主義に嵌り込む
のである。大切な事は、「青い鳥はすぐそこにいる」という事に気付くこと。
幻想を追わず現実を見据える事に悦びを見出すこと?如何なものか。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

節気循環と時代藤田まことを偲ぶ ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。