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続4・たこ壷型社会 [社会]

日本的たこ壷型社会について論じた本として今、丸山真男「日本の思想」(1961)、中根千枝
「タテ社会の人間関係」(1967)、山本七平「空気の研究」(1977)、中島義道「<対話>のない
社会」(1997)などが思い出される。いずれも西欧と日本とを対比させながら、日本の課題を
論じている。論旨は、世界における日本に関して‘客観的現実認識’をすることが重要である
ことを指摘するに留まっていて、方策に関しては明確に示されていない。

上記の書物が明確な方策を示さなかったのは、日本人の読者が自分達の著作を読めば、課題は
解決される、即ち、‘日本的たこ壷型社会’から脱却できると考えたのではなかろうか。しかし
上記の4冊の36年にわたる出版過程を見ても、そんなに簡単に日本人の意識改革ができるとは
思えない。ましてその後は売れなくなっている?
山本七平は、「空気の研究」の中で、‘日本人は現実的な体験無には未来を予測できない’と
書いている。現実体験も、他人の体験では用をなさないのだろうか?
第二次世界大戦の体験も、今や“文字”、“話”のレベルである。「喉元過ぎれば暑さ忘れる」
という諺があるとおり、日本人は、個人的体験すら忘れっぽい、楽天的性格なのである。

上記の著作の利用の経緯と、明治維新以来の140年の歴史を振り返ると、日本人が集団として
世界の‘客観的現実認識’欠如、すなわちリアリティを喪失する現象を避けられない感がある。
「日本的たこ壷型社会」は、個人レベルなどで、日本や個人に関する‘客観的現実認識’を
持ったとしても、日本全体として、即ち政治的に正しく認識できない運命なのか?
日本的たこ壷社会は、一昨日のブログ「続2・たこ壷型社会」の“起承転結”の連鎖の中で、
際限なく循環していく運命なのか?

「KY」が流行語大賞になったのが2007年。今、日本は完全に‘空気’に支配されつつある。
その閉塞感が、鳩山内閣信仰へと傾斜している。しかしそれはお門違いも良いところだろう。
‘空気支配’は、誰かが作り出したものではない。それはリアリティを喪失した人々の心の
中に巣食っている“臆病風”から発しているのではなかろうか?
「幽霊の正体見たり 枯れ尾花」という川柳がある。現実に根ざした生き方をしていないと
様々なものが障害に見えてトンでもない過ちを犯す事になる?如何なものか。
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