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続2・たこ壷社会 [社会]

司馬遼太郎は、日露戦争にまつわる小説「坂の上の雲」を書いている。その小説に関連して
“明治時代には日本人にリアリズムがあった。しかし日露戦争に勝って現実感が薄れ、時代は
そこから悪くなって今の日本の問題にも連なっている。”、と書いている。(文芸春秋11月号)
‘リアリティの喪失’=現実認識の欠如=たこ壷化、という風に言えるのではないか?

2009-05-15のブログ「米国留学少女物語・E」で、明治維新から第二次世界大戦敗戦までを
起:明治維新(1868)~大日本帝国憲法発布(1889)、自由民権運動の盛り上がり
承:大日本帝国憲法発布(1889)~日露戦争講和(1904)、富国強兵
転:日露戦争講和(1904)~金融恐慌(1927)、リアリズムの喪失
結:金融恐慌(1927)~第二次世界大戦終戦(1945)、現実認識の欠如の連鎖
という風に区分して、戦後日本の歩みを、次のように
起:日本国憲法発布(1946)~東京オリンピック開催(1964)、労働運動の激化、安保闘争
承:東京オリンピック開催(1964)~バブル全盛(1985)、経済発展、日米貿易摩擦
転:日本株価最高準バブル全盛(1985)~世界金融恐慌(2008)、リアリズムの喪失
結:世界金融恐慌(2008)~?
と区分して、その共通性を指摘した。

日本は、外圧によって丸で、釜の中の湯が沸騰するように‘たこ壷’から出て、相互に激論し
リアリティの把握に努め、一生懸命に努力する。しかしある種の頂点に登りつめたと思った
瞬間から、リアリティを喪失していく傾向にあるのではなかろうか?司馬遼太郎も指摘する
ように、いや夏目漱石が同時代に既に指摘していたように、日露戦争後一等国になった等と
浮かれている場合ではなかったのである。それと同様に現代も、バブルで米国に次ぐ超大国に
なった等といって、我儘放題をいう輩に好き勝手させるような状況では無いだろう。

日本国民は、‘たこ壷’に入りたがる習性を持ち、かつ、司馬遼太郎も書いているように、
国家・政府をいとも簡単に信じてしまう単純な人々の群れなのである。諸外国では常識である
「軍事的教養」が欠如している国民であることも政治家たるもの決して忘れてはならない。
然るに現在の「普天間基地問題」にしても、「核密約問題」にしても、政府の指導力は愚か
政府自らが、自己の‘たこ壷性’、‘軍事的教養の欠如’、‘リアリズムの喪失’を演じているのではないか?そのような恥を世界に曝している事に気付かぬ事が恐ろしい。如何なものか。
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