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人生の完成?・続 [社会]

昨日のブログで、古代インドにおけるライフサイクル「四住期」の‘遊行期’について書いた。
私は、そのような‘遊行期’を考えるために、四国遍路を取り上げた。四国遍路について、
空海の悟りと四国遍路との関係、そして四国遍路の各地への伝播と言う現象を踏まえた上で
‘遊行期’が人生を完成させる時期、人生の完成への祈りの時期ではないか?と考えた。
しかし、「人生の完成」とは何か?「人生の完成への祈り」とは何か?の説明はしなかった。

今日は、「人生の完成」、「人生の完成への祈り」とは何か?について考えてみたいと思う。
‘遊行期’とは、四季でいえば‘冬’に当り、「死」を恐れながら暮らす暗いイメージがある。
しかし文章の展開でいえば、‘起承転結’の‘結’即ち締め括り、完結偏・大団円に相当する。
すべての人々には、生れてから今日まで様々な出来事がある。しかし何時かは「死」によって
人生の終結の時は来る。ならば‘遊行期’は、人生の完成、即ち、いろんな人生の山谷を超え
てきた自己の人生を、めでたくおさまる大団円にまとめる時期にすれば心は休まるのでは?
すべてが、めでたくおさまる大団円の場面を想像するだけで、胸がわくわくするではないか!

四国遍路(そして各地の遍路)は、正にそういった人々の‘シナリオ作成’の場であり、また
それの完成を祈る場であったのではなかろうか?四国遍路とかかわりのある‘遊行期’以外の
人々もまた、自らの未来への希望のために、お遍路さんを支えたのではないか?
四国遍路という知恵は、人生の挫折や失敗にめげず、積極的に生きる大衆の願いを受け止め、
それぞれの人々の人生が、めでたくおさまるための場を提供し、支えたのだと思う。

現代は‘遊行期’において、めでたくおさまる事は、極少ないエリートのみの特権か、または
一般的にはまやかし的いかがわしさを伴う宗教的な‘悟り’によってのみ可能であるものと
考えられているように思う。このような考え方が、酒や麻薬におぼれる傾向を増長している?
此処では ‘遊行期’における人々がめでたくおさまるための場の提供や支援の仕組みとして
四国遍路のみを取り上げたが、昔にはもっと様々な仕組みがあったことだろうと想像する。
現代日本は、福祉でも医療でもすべて金で解決しようとする。今までは老人を薬漬や介護漬に
して金儲けのタネにしていたが、最早、財政が破綻する段階では方向転換せざるを得ない。
これからは老人自らが「めでたくおさまる大団円」の祈りで、金がなくても身体が不自由でも
不服を言わず前向きな‘豊かな心’を持つ仕組みづくりが、より大切だろう。如何なものか。
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