SSブログ

散歩と坐禅 [散歩]

この所、秋雨前線が停滞していて、今日も朝から雨だった。月曜からまた仕事が切れたので
午前中からわずかな雨に傘をささず散歩に出た。こちらに転宅してから7年と3ヶ月、
一日1万歩、7万歩という目標をほぼ達成しながら継続してきた。
金をかけない散歩を心掛けたお陰か? 金をかけないために自宅から開始する散歩を如何に
楽しむか?が大きな課題だった。自宅から歩く散歩は、新ルートの発見には限度がある。
毎日歩いていれば、幾らコースを変えてみても見慣れた風景でしかなくなる。

それを如何に楽しむか?今日もポツリポツリの雨の中、傘をさすかどうか、止みそうか、
目にとまる諸物を活き活きと蘇らせるわずかな雨と戯れながら、昨日の映画のことなどを
思い出した。私にとって、散歩は坐禅と同じような効用があるように思った。
坐禅は自分の内なる心の風景を極めてゆく。私の散歩は見慣れた景色の中に新発見をする。
季節の移り変りや、一日の時刻による違いや、気象その他を感じ取る。
その行為は、自分の内なる世界と、外の世界との交信であり、自分自身の発見につながる。
勿論、合唱練習の音源を聞くとか、妻との会話で景色などそっちのけの場合もあるが。
いずれにしても、“いろんな工夫をして、散歩も長続きしているなぁ~”と、思わず思う。

中村天風のいうように、禅の本領・目的とは、“正しい自覚を基に、真善美の生活を実行し
人間として、本来の務めを果たすこと”であるならば、「正しい自覚」は、出発点である。
「自覚」を辞書で引くと、“自分でさとること”とある。そして、“過ちを自覚する”という
例文が出ていた。“正しい自覚”というのは本来、目的語がないと意味が通じない。
しかし、「自分」という目的語を省略した形と解釈すれば、“自分で自分のことを正しく
さとること”ということになる。その反対の“自覚していない”は、“自分で自分のことを
わかっていない”と言う事になる。

道元のいう坐禅=只管打坐(しかんたざ)と、中村天風の言葉をあわせれば、
“自分本来の務めを果たすには自分を自覚する事がはじめであり、またおわりでもある“。
即ち、“自分を自覚する事”を持続的に繰り返さなければ、自分本来の務めを果たせない。
これは裏を返せば、自分本来の務めがない者にとっては自分を自覚しなくてよい事になる。
現代は“自分を自覚しなくてよい者=本来の務め無く欲の有る者”が溢れている?如何なものか。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

映画<道元禅師>温暖化と経験知 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。