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三原随想'09_0825 [歴史]

DSC090823三原港.JPG三原は海から山が近い。三原駅から三原港まで歩いたが10分も
掛からなかった。急げば数分。写真は港の岸壁から南に向かって
撮ったもの。三原湾は昔はもっと広く、かつ沼田川の上流まで海だったようだ。倉敷の高梁川も昔は相当上流まで海であったのと同じだ。現在の三原八幡宮の南側も江戸・元禄時代(1700)頃、宮沖新開という新田開発がなされている。その後、土砂による堆積で
沼田川流域は度々洪水に見舞われた。現在の山陽本線や呉線の線路から、山陽本線の出来た明治20年代前半や呉線の起工・昭和2年(1927)当時の大凡の海岸線を想像出来そうである。
写真対岸は干拓地で帝人三原工場。遠景の山近くまで昔は海だったと思われる。
山は左が筆影山・右は竜王山か。春は桜、晩秋から冬は海霧。頂上の展望は瀬戸内海随一の
多島美という風に紹介されている。瀬戸内海は随一の眺望が随所にあるようだ。

◎ 瀬戸内海 随一多し セコないかい? (作者:瀬古内与)
  最近は俳句が浮かばないので川柳風に作ってみた。“せこい”は俗語でずるい、細かい、
  ケチ、などの意味がある。“戸”は「ト」と共に、「コ」とも読めるよね。
  誰がせこいのか、何処がせこいのか?私は、瀬戸内海はせこくはないと思う。
  瀬戸内海は素晴らしい。私はあちこち随一の場所に行きましたが、裏切られた例がない。
  この川柳は語呂合わせの面白さと共に、反語的に瀬戸内海の素晴らしさを強調している。
  瀬戸内海に、眺望随一の場所は多いが、そのどれもが本当!決してせこくはないのだ!

豊臣秀吉は三原城築城者・小早川隆景と一世代若い直江兼続を評して、「この世で天下の仕置きができるのは直江兼続と小早川である」「ただし天下を取るには直江は知恵が足りず、小早川は
勇気が足りない」と続けたという。小早川隆景は、三本の矢で名高い毛利元就の息子・三兄弟の一人である。その元就が毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の息子に書き残した「三子教訓状」という文書がある。内容はURLを参照のこと。そのことをこの度、知って感じた事がある。
元就は兄弟仲良く家を守る事、子孫への気配りや先祖供養について伝えるだけでは無かった。
そこには人生を一生懸命生きてきた男の生き様がある。やっと人生を省みながら息子達に教訓を書き残す中で、人生観を、息子達に思い残すことなく書けたことに対する感謝の気持がある。
相応の年齢に達した現代の父親にも同様の願望がありブログをやるのでは?如何なものか。
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