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親父の遺言 [大家族]

先日のブログ“合唱・一期一会”でも引用した亡父の掛軸の言葉について再度書いて置きたい。
父は生来習字を好み達筆だったが、仕事を引退した60歳過ぎて本格的に先生について修行もしていた。あの『小堀遠州の茶の湯の栞(しおり)』の掛け軸(cf.2009.06.08合唱・一期一会)は、
私が当地で家を新築した時に、床の間にかける物が必要だろうと書いてくれた。
父が亡くなる1年前の事である。当時は、床の間に掛けて朝夕に接していたが、その後転勤・転宅等が重なりいつの間にか疎遠になってしまっていた。今読み返して見ると、まるで遺言の様に思えてくる。再度、要所を示しながら、父の思いを振り返ってみた。

“茶の湯の道とても外にはなく 君父に忠孝を尽し家々の業を怠らず 殊には旧友の交りを失うことなかれ 春は霞、夏は青葉がくれのほととぎす、秋はいとゞさみしさまさる夕べの空、冬は雪の曉、いづれも茶の湯の風情ぞかし” 最初の一節は、生きていく上で、人間関係、および人と自然との交わりを大切にする事、その心の余裕を諭している。外にはない茶の湯の道なのだ。

“道具とても多からず少なからず・・・”の第2節は、事の外、親父の思いのこもった部分と思われる。原典を当たった訳ではないが、少し文章を自分流に書き換えているのではないかと思われるフシがある。特に「多からず少なからず」の部分などがそれである。茶道具にかこつけて、財産に執着したり、趣味の道具にのめり込んだりすることを戒めている。「幾度ももってはやしてこそ」という部分は、“もてはやす”という通常の言葉と異なるが、そこに、父の思いがこもっている。世間的な金銭評価ではなく、自身が手に持って使って手入れをして大切にしてこそ、本当の道具、趣味の道だということである。他人のお世話で伝える道具には金銭価値しかない。

“一飯を勧むるにも志を厚く 多味なりとも志うすき時は早瀬の鮎、水底の鯉とても味はあるべからず”の第3節は、客を接待する心の大切さ、幾ら高価なものでもモノを差し上げる人の心が空疎ならば、すなわち、形式的な気持で接待するとか、接待してやるという様な横柄な心持ちの接待ではいけないということ。自分では気付かずそうした態度・心持になることもある。

“籬(まがき)の露山路の蔦かずら明暮れてこぬ人を松の葉風の釜のにえ音たゆることなかれ”
の最終節は、人生の山谷に左右されず、茶道に精進する心がけを説いている。茶道でなくても良いのである。どんな人生の紆余曲折にも心の余裕を持って対処せよと解釈した。如何なものか。

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